多角化経営へとは? わかりやすく解説

多角化経営へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:26 UTC 版)

ヤマハ」の記事における「多角化経営へ」の解説

終戦2か月後の1945年昭和20年10月ハーモニカシロフォン製造再開し1947年昭和22年4月ピアノ製造再開した1949年昭和24年5月東京証券取引所第1部上場する1950年昭和25年)に嘉市の息子である川上源一38歳で第4代社長に就任する源一伝統楽器事業充実させ、社有技術応用して経営の多角化図り戦後経済復興とともに音楽手始めに生活に彩り加えることを目指した。源一かけ声は「日本にエピキュロスを」であった日本の狭い住宅環境鍵盤楽器親しむことを目指し製品・サービス開発した1954年ヤマハ銀座ビル実験的な音楽教室開始1956年にはその名称を「ヤマハオルガン教室」に変更、さらに1959年ヤマハ音楽教室」に名称変更した同じく1959年昭和34年)、12月にはエレクトーンD-1発売したピアノエレクトーン販売のために割賦会社のヤマハクレジットを設立する1965年昭和40年)に管楽器打楽器製造開始する1966年昭和41年)に財団法人ヤマハ音楽振興会発足し1967年昭和42年)に第1回全日本LMCライトミュージックコンテスト)、1969年昭和44年11月第1回作曲コンクール(のちのポプコン/POPCON)を開催するなど、手軽に購入できる楽器音楽教室コンクール開催で『趣味として音楽演奏』の普及図った1960年代グランドピアノから管楽器打楽器弦楽器まで幅広く製造する総合楽器メーカーとしての基礎固め1968年昭和43年11月ピアノ弦楽器製造天竜楽器を、1970年昭和45年5月日本管楽器吸収合併する。 楽器以外の分野1954年昭和29年)にヤマハ・YA-1愛称赤トンボ)の製造開始し1955年昭和30年7月二輪車部門独立しヤマハ発動機株式会社とした。初のスポーツ用品であるアーチェリー1959年昭和34年)に開発するアーチェリー素材であるFRP開発が、1961年昭和36年)のスキー板住宅用浴槽発売につながる。1975年昭和50年)に高級家具製造開始する1964年昭和39年)に鳥羽国際ホテルオープンしリゾート事業参入する以降1967年昭和42年)に三重県志摩市合歓の郷1974年昭和49年)に静岡県掛川市に「つま恋」、1978年昭和53年)に袋井市大正モダン風の「葛城北の丸」、1979年昭和54年)に沖縄県竹富町小浜島に「はいむるぶし」をそれぞれ開業した余暇産業多角化を図る源一経営方針は、1960年代から1970年代日本行楽観光市場拡大合致して業績成長した浜松スズキ鈴木修昭和30年代新入社員時代に、飲み屋で「つけといてくれ。スズキ社員だ」と言うと日本楽器製造)さんならいいけど」、と応えられるほどに浜松ヤマハ評判大きくなった。源一は「ヤマハ中興の祖と言われたが強い性格強引な経営傾向指摘された。1977年昭和52年1月に「足元の明るいうちグッドバイ」と第5代社長河島博に譲るが、意見の対立から1980年昭和55年6月に第6代社長に復帰している。

※この「多角化経営へ」の解説は、「ヤマハ」の解説の一部です。
「多角化経営へ」を含む「ヤマハ」の記事については、「ヤマハ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「多角化経営へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「多角化経営へ」の関連用語

多角化経営へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



多角化経営へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヤマハ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS