多角化と百貨店の開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:14 UTC 版)
茂木は、庄三郎の時代から引継いだ生糸輸出や、初代茂木惣兵衛の時代から手掛けていた小売業としての呉服店だけでなく、名古屋の瀧定の次男から婿養子になった二代目茂木保平の時代には茂木銀行(後の七十四銀行)による金融や不動産事業、初代茂木惣兵衛の故郷である群馬県高崎で茂木製糸場での生糸製造、羽二重の輸出と製造、洋服などの絹製品の製造・販売なども手掛けて多角化し、横浜を代表する財閥の一つに成長した。 1910年(明治43年)11月1日に横浜市の伊勢佐木町にショーウィンドーのある2階建ての支店を開き、従来の座売り形式を改めて陳列式とするなどデパートメントストアのスタイルを取り入れたのが百貨店としての始まりとされることが多い。しかし、洋服などの絹製品を扱う野澤屋絹物店との棲み分けの関係もあり、開業当初は呉服、太物類のみで洋品類などを扱っていなかったため、販売形式は百貨店化していたが、販売品目としては呉服店であった。 それでも、当時から意匠部を持ちいち早く流行を取り入れたり、お値打ちなプライベートブランド「野澤紬」を販売するなど優れた商品力を持ち、当時から三越や髙島屋などに匹敵する一流店との評価を得ることに成功していた。
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