新入社員時代
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1968年に同大学を卒業し、東京電力に入社する。最初の配属先は池袋支社で、1年後に品川支社、その後千葉支店柏営業所に転勤した。そのため検針、集金、お客様窓口対応、工事手配、資材の仕入れなどに強い印象が残ったと言う。当時清水自身も現場に出て、品川支社時代に街路灯の設置場所や本数が社内図面と不一致だった際には地元の町内会長と共に1本ずつ歩いて確認していった事もあるという。営業所時代には電柱の移設の仕事も経験し、工程管理をしないと新旧の電柱が長期間現地に立っている状態になるので気を使ったと言う。 検針・集金などの仕事を4年間担当後、横浜火力発電所に配属、当直三交替を経験、原子力発電所にも勤務しECCSの作動試験立会いの仕事に参加した。
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新入社員時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:21 UTC 版)
1968年、日本短波放送(現在の日経ラジオ社)に入社。同期は大学時代からの遊び仲間だった松村不二夫。当初は農業関係のニュースや市況、気象情報、CM、番組の前後の紹介アナウンスの録音や、大手町の日本経済新聞社の中にあるブースに出向いて定時ニュースの担当などが日勤での業務で、夜勤は旺文社の『大学受験ラジオ講座』の前後のアナウンスやCM、放送終了前の気象情報、翌朝5時の放送開始アナウンスなどの宿直担当が主な業務だった。しかし、憧れのアナウンサーとしてのスタートは切ったものの、アナウンサーになる事自体が大きな目的だったため、「こんな番組をやってみたい」とか「このスポーツの実況がしたい」といったその先の目標が無く、アナウンサーになって何がしたいのかを考える事ができなかった。これは、研修期間を経て実務に入ってからもその答えは見つからず、ただ与えられた仕事をこなしていくだけの日々を送っていた。 入社2年目の春、スポーツ担当のプロデューサーに後楽園球場へ連れられて『プロ野球ハイライト』(彼が入社した当時、プロ野球中継はすでに終了していた)を手伝うようになる。スコアシートのつけ方から教わり、後に情報アナウンサーとして出演するようになる。この現場で野球の実況をしている田島喜男の後ろ姿を見つめながら、「こういうアナウンスがしてみたい」と野球実況に対する憧れを抱き、入社直後から模索し続けてきたアナウンサーになってからの目標をようやく見つける事ができた。 先輩アナウンサーの後について球場に通い、野球実況の練習を重ねている中、リトルリーグ国内大会決勝戦中継の実況担当に抜擢され、さっそく実況のチャンスが巡ってきた。しかし、降って湧いたように飛び込んできた実況デビューの話は、まだ実況の形が充分ついてない状態で臨まなければならなかったので、喜びよりも緊張の方が大きかった。当日は準決勝戦2試合をバックネット裏の仮設放送席で見た後に決勝戦の実況を行ったのだが、明るい日差しの下で2試合を連続で見たために、いざ実況という時にはバックネットの金網が目に焼き付いてしまい、空を見ても目をつぶっても金網の模様がチラつくという悪いコンディションで臨まなければならなかった。さらに、体力の配分が出来ずに初回から飛ばしてしまい、体力が続かなくなると集中力が低下して、その影響が実況に現れる。3回を過ぎたあたりから選手名やボールカウント、アウトカウントの間違いといったイージーミスが多発し、肩や背中を中心に体が固くなり、声が続かなくなっていった。そして、試合終了直後は充実感や反省どころではなく、「これでやっと目がつぶれる」といった安堵感だけが残ったほろ苦い実況デビューだった。その後も、丁寧や教えを受けながら実況デビューの時に出た課題を克服し、最終的にはプロ野球ハイライト用の実況も担当するようになる。
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