丸物・京都近鉄時代とは? わかりやすく解説

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丸物・京都近鉄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 05:49 UTC 版)

橋本達吉」の記事における「丸物・京都近鉄時代」の解説

近鉄百貨店活躍していた橋本だったが、近鉄グループ総帥佐伯勇に「"これで縁は切った丸物骨を埋めろ"っていわれて」、京都市下京区京都駅北側本店を置く百貨店丸物」への赴任命じられた。同社東京池袋東京丸物出店するなど、三大都市圏北九州市展開していたが、創業者の死後、伊藤忠商事との資本提携失敗するなど経営悪化しており、近畿日本鉄道のもとで経営再建するに至った1966年昭和41年5月1日には近鉄百貨店の上司だった永岡孝二に伴われ丸物本店挨拶向かった同年7月2日参与として赴任した丸物同様に髙島屋大丸などと競争していた近鉄百貨店よりもおおらかな商売をしており、辞令すら用意されていないことに橋本驚いた近代化や高級化が遅れていると丸物に対して厳し評価をしている。松菱創業者丸物共同創業者だった谷政二会長から営業担当頼まれ学生以来京都不慣れながら、先輩らの励ましもあって業務こなしていった。丸物就職していた京都工業専門学校同級生とも再会し、彼が新入社員時代藤田嗣治の絵について故・中林仁一郎社長から相談受けたことを知って驚く。 中林仁一郎長男で、当時社長だった中林仁良2人3脚で経営再建進め丸物への入社2年後には本店になった丸物池袋豊橋など遠隔地からの撤退後京都岐阜の2店舗体制にいったん縮小したが、1975年にはひらかた丸物出店している。しかし、まもなく1977年には近畿日本鉄道意向もあって、丸物京都近鉄百貨店社名変更することになった橋本中林仁良代書高所からの決断敬服した一方近鉄退職する形でやってきて在職11年丸物マンとして愛惜の念から1人涙した京都近鉄百貨店では橋本社長中林仁良会長という新体制での出発となった都心である四条通周辺比べて整備遅れていた京都駅エリアにおける駅前地下街京都駅前地下街ポルタ)の開業向けた同社体力づくりにも意欲示した国鉄主導型の地下街となるなど計画通りにはいかなかったものの、本店全館改装による集客力向上など一定の成果上げることに成功した地下街開業後、京都市営地下鉄烏丸線京都駅到達した1981年には吉祥寺東京近鉄百貨店初代社長だった佐藤恕社長交代し会長となったその後代表権のない相談役降りた

※この「丸物・京都近鉄時代」の解説は、「橋本達吉」の解説の一部です。
「丸物・京都近鉄時代」を含む「橋本達吉」の記事については、「橋本達吉」の概要を参照ください。

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