圧力容器の製造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:20 UTC 版)
「福島第一原子力発電所1号機の建設」の記事における「圧力容器の製造」の解説
田中直治郎は1号機着工前の1966年『電力』の臨時増刊号の対談で「できるだけ国産で間に合わせ得るものは国産でやるように事務当局に申しております。ただ東電の場合は非常に安全というか、安全を高く、高度な建前を取っておりますので国産で不安のあるようなものはこれを取らない、あくまでも安全に対して自信のあるもの使う」と述べていた。そして、この一例として原子炉圧力容器を挙げ、GEと石川島播磨に対して、1号機は「輸入にするのだ」と主張し、国産で実施する場合の条件として、石川島播磨のカウンターパートであるバブコック・アンド・ウィルコックス(B&W)との折衝、援助内容、対東電との間の監視方法、事実の探知方法などで、東京電力が満足できる措置が取られることを挙げている。 『原子力通信』によると当時GEも大量受注をこなすため、圧力容器製造は国内外のメーカーを積極的に下請として発注しており、米国内にはコバッション・エンジニアリング(CE)社、シカゴ・ブリッジ&アイアン(CB&I)社などが製造メーカーとしてあった。当時、日本メーカーと米国メーカーとの間では次のような技術提携が結ばれ、国内メーカー各社は最新技術の消化と受注準備にしのぎを削っていた。 日立、B&W「原電敦賀用圧力容器の設計審査」:1966年4月 石川島播磨、CB&I「ホルトン・ニュークリア・コンティメント・ベッセルに関する製造技術」:1965年7月 石川島播磨、B&W「東電福島1号機圧力容器の設計指導と製造方案指導に関する技術」:1966年12月 また当時、ASMEにて原子力発電の拡大に伴い圧力容器の新規格が制定されていた。これに伴い、火力発電技術協会は1966年10月29日より約1ヶ月の予定で米国に原子炉圧力容器の調査団を送ったが、団長は東京電力技術最高顧問を務めていた寺田重三郎、他に同社からは川人武樹、他社からも天野牧男(石川島播磨)、林勉(日立製作所)、野村純一(日本製鋼、副団長)等、福島第一をはじめとする東京電力の原子力発電所建設に関与することになった者が含まれていた。調査団は国産化を見据え、1967年3月までに日本における圧力容器のあり方について取りまとめる予定であった。 結局、原子炉圧力容器の制作は当時東芝と関連のあった石川島播磨重工業(現:IHI)が1966年12月より設計、応力解析を実施し、1969年に海送により出荷した。圧力容器を製作したIHI横浜第三工場を『とうでん』が取材した記事によれば、GEが石川島播磨に発注したのはこの頃、同社が過去にボイラ、化学プラントで多くの実績を重ねていたことを評価していたからである。また、石川島播磨側も日本の重電三社同様、アメリカに留学者を出すなどして原子力部門での取り組みに備えていた。例えば、圧力容器の設計には詳細な応力解析を必要としたが、石川島播磨はこのために以前より応力解析用計算機プログラムの開発を続け、1号機用容器の設計でその成果が駆使された。容器完成を報じた『原子力通信』によると、計算が困難な部位(下鏡制御入孔部、再循環出口レデュースドノズル、上蓋計測用斜角ノズル)については3次元光弾性模型試験を実施した。また、石川島播磨で作成した応力解析計算書、各種製造検査方案をB&Wに送付してレビューを受けている。 製造検査は安全性に直結することは石川島播磨も当初から認識しており、完成の約10年前から厚板溶接技術、溶接クラッド技術、模型応力試験などを進めて行った。また、「完成までに約3年かかるが、そのうち1年は検査の期間」「チェックリスト紙は2,000〜3,000枚に、検査回数は数千回」とコメントされている。 多田正文によれば、極初期を除き、米国軽水炉の原子炉圧力容器には抗張力56kg/mm2のマンガン・モリブデン鋼、或いはさらに衝撃性質を高めるためニッケルを添加した低合金鋼が用いられているが、1号機では焼ならし、焼き戻し材のASTM SA-302Bを用いているものの、ニッケルの添加は行わずそれに相当する熱処理を実施していた。1965年にはニッケルの添加を規定した焼入れ、焼き戻し材であるASTM A-533が規格として発行されたが、この規格を適用したA-533 Gr.B,Class1を使用した圧力容器は2号機から採用された。 なお、圧力容器は蓋を取り外し可能なようにフランジ接続となっており、漏洩防止のため二重Oリングが施工されている。炉心と圧力容器の間には20本のジェットポンプと冷却水があるため、圧力容器の中性子照射量は減少が見込まれ、40年運転で1018nvt、脆性遷移温度の上昇は55℃と見積もられた。 本発電所での水切り(建設現場への荷揚げ)は現地物揚場に設備された700t吊りジンポールデリック、建屋での据付は特設されたタワーデリック、リフティングタワーが用いられた。 原子炉圧力容器は鉄パイプ製のコロに載せてウィンチで据付場所まで曳いたが、暴走を避けるため少しずつしか移動出来ず、300mの移動に5日かかった。当時東電の技術者で後に本発電所内「福島原子力技能訓練センター」に転じた平田秀雄はピラミッド建設になぞらえて回顧している。1996年当時の技術なら1日仕事だという。なお、1969年5月の圧力容器を船から陸揚げする方法は作業方式としては世界初のケースであった。 圧力容器の底では、制御棒ハウジングを補強するように約100本のスタブ・チューブが底部から伸びている。東芝福島原子力事務局長の渡辺祐一が『電気新聞』の座談会にて述べたところによると、このチューブにハウジングを溶接する際はGETESCOから自動溶接機を持ち込む方法を採り、工期短縮と品質向上にも繋がったという。 地震対策としては、円筒胴にスタビライザーを8個取付し、地震による振れの軽減を図っている。
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