円熟期、1476年 - 1513年とは? わかりやすく解説

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円熟期、1476年 - 1513年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:48 UTC 版)

レオナルド・ダ・ヴィンチ」の記事における「円熟期、1476年 - 1513年」の解説

1476年フィレンツェ裁判記録に、レオナルド他3名の青年同性愛容疑かけられたが放免されたというものがある。この1476年以降1478年になるまで、レオナルド作品居住地に関する記録残っていない。1478年レオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作中止し父親の家からも出て行った思われる。アノニモ・ガッディアーノという正体不明人物が、1480年レオナルドメディチ家庇護受けており、フィレンツェサン・マルコ広場庭園新プラトン主義者の芸術家詩人哲学者らが集まったメディチ家主宰するプラトン・アカデミー一員だったという説を唱えている。1478年1月レオナルドは、最初独立した絵画制作依頼受けたヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂祭壇画制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院修道僧から、『東方三博士の礼拝』の制作依頼受けている。しかしながら礼拝堂祭壇画未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドミラノ公国へと向かったために制作中断され未完成に終わっている。 ヴァザーリ著書によると、レオナルド才能溢れ音楽家でもあり、1482年に馬の頭部意匠とした銀のリラ制作したとされている。フィレンツェ支配者ロレンツォ・デ・メディチが、この銀のリラ土産レオナルドミラノ公国へと向かわせ、当時ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとの間で平和条約結ぼうとした。当時レオナルドルドヴィーコ送った書簡記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルド自然科学分野驚嘆すべき様々な業績挙げていたことを物語内容で、さらにレオナルド絵画分野でも非凡な能力有していることをルドヴィーコ告げ文章である。 レオナルド1482年から1499年まで、ミラノ公国活動した。現在ロンドンナショナル・ギャラリー所蔵する岩窟の聖母』は、1483年聖母無原罪御宿り信心会からの依頼で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院壁画最後の晩餐』(1495年 - 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である。1493年から1495年レオナルド納税記録現存しており、レオナルド扶養家族中にカテリーナという女性記載されている。この女性は1495年死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルド生母カテリーナだと考えられている。 レオナルドミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画命じられた。特別な日使用する山車パレード準備ミラノ大聖堂円屋根設計スフォルツァ家初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ巨大な騎馬像制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルド手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作開始されなかった。騎馬像原型となる粘土製の馬の像完成したのは1492年である。このフランチェスコ騎馬像大きさの点で凌ぐルネサンス期彫刻作品は、ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂サント広場)と、ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルド制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬(イタリア語版)」として知られるようになっていった。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造具体的に進めようとしたが、レオナルド嫌っていた競争相手ミケランジェロは、レオナルドこのような大仕事ができるわけがない侮辱したといわれている。この騎馬像制作のために17トンブロンズ用意されたが、後の1494年11月にこのブロンズは、フランス王シャルル8世ミラノ侵攻対抗するための大砲材料流用されてしまった。 1499年第二次イタリア戦争勃発しイタリア侵攻したフランス軍が、レオナルドブロンズ像原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊したルドヴィーコ率いミラノ公国フランス敗れレオナルド弟子サライ友人数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへと避難したレオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍海上攻撃からヴェネツィアを守る役割軍事技術者として雇われている。レオナルド故郷フィレンツェ帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道英語版)の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリ著書には、レオナルドがこの修道院工房与えられ、『聖アンナと聖母子』の習作ともいわれる聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1499年 - 1500年ナショナル・ギャラリー)を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女問わず多くの人が見物訪れ、「祭り様相呈していた」と記されている。 1502年レオナルドチェゼーナ訪れローマ教皇アレクサンデル6世息子チェーザレ・ボルジア軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した1502年レオナルドチェーザレ命令で、要塞建築するイーモラ開発計画となる地図制作した当時地図極めて希少であるだけでなく、その制作当たってレオナルドの全く新し概念導入されていた。チェーザレレオナルドを、土木技術特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。同年レオナルドは、トスカーナ渓谷地帯ヴァルディキアーナ(en:Valdichiana)の地図制作している。この地図チェーザレ軍事戦略有利な地位占めるのに役立ったレオナルドは再びフィレンツェ戻り1508年10月18日フィレンツェ芸術家ギルド聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿大会議室壁画アンギアーリの戦い』のデザイン制作2年携わった。このとき大会議室反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い英語版)』の制作取り掛かっていた。またレオナルド1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『ダヴィデ像』をどこに設置するべきかを決め委員会一員になっている1506年レオナルドミラノ訪れたベルナルディーノ・ルイーニジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ英語版)、マルコ・ドッジョーノ(英語版)ら、絵画分野におけるレオナルド主要な弟子追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である。ただし、1504年父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドミラノ滞在短期間終わった1507年にはフィレンツェ戻り父親遺産を巡る兄弟たちとの問題解決腐心している。翌1508年ミラノ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅落ち着いた

※この「円熟期、1476年 - 1513年」の解説は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の解説の一部です。
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