円熟期とフィリップ3世からの寵愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 09:24 UTC 版)
「ヤン・ファン・エイク」の記事における「円熟期とフィリップ3世からの寵愛」の解説
宮廷画家として仕えていたバイエルン公ヨハン3世が死去すると、ファン・エイクは1425年に、当時大きな権力と政治的影響力を持っていた、ヴァロア家の一員であるブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた。ファン・エイクは当初リールに居を構えたが、一年後にはブルッヘへと移り、1441年に死去するまで当地で暮らしている。ファン・エイクのフィリップ3世の宮廷での活動に関する、多くの文献が20世紀に出版された。フィリップ3世の代理としての外交官を務めることもあり、絵画制作自体が重要な外交任務となることもあった。しかしながら、フィリップ3世とイザベル・ド・ポルテュガルの婚儀をとりまとめる代表団の任務の一環として、1428年から1429年にイザベラの肖像画を2点描いたこと以外は、ファン・エイクが果たした外交上の業績はよく分かっていない。 フィリップ3世の宮廷画家、近侍 (en:valet de chambre) として、ヤン・ファン・エイクは並外れて多くの報酬を得ていた。宮廷に迎えられた当初から年収は非常に高かったうえに、その後数年間で二度もそれまでの倍の年収に引き上げられており、さらには特別手当が追加されることも多かった。当時の初期フランドル派の画家の大部分が、不特定多数からの個人的な絵画制作依頼によって生計を立てていた中、このような高年収を得ていたファン・エイクは画家たちのなかでも特別な地位を占めるようになった。ファン・エイクがフィリップ3世から非常に高く評価されていたことを示す記録が残っている。これは、1435年にフィリップ3世が財務担当官に対して、ファン・エイクへの報酬が未払いになっていることを叱責した記録で、もしファン・エイクがブルゴーニュ宮廷を去ってしまったなら、その「芸術と学識」の面で替わりになる人物はどこにもいないではないかというものである。さらにフィリップ3世はファン・エイクの子供の名付け親になっているほか、ファン・エイクが死去した際には未亡人に援助を行い、その数年後にファン・エイクの娘の一人が修道院に入るために必要な費用を出したりもしている。
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