円熟の作曲家として
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「カール・ニールセン」の記事における「円熟の作曲家として」の解説
当初、ニールセン作品の認知度は十分とは言えず彼の自立は困難であった。1894年3月14日に彼の交響曲第1番が初演されたコンサートでは、スヴェンセンが指揮をしてニールセンは第2ヴァイオリンを演奏した。この交響曲は1896年にベルリンで演奏された際に大きな成功を収め、彼の名声に大きく貢献した。次第に劇場用の付随音楽や特別な行事のためのカンタータの依頼が増えると、いずれもありがたい追加収入になった。ファニングは彼の標題作品と交響的作品の間に発展した関係性について次のように述べている。「時おり、彼は自らの純管弦楽と思われる音楽に舞台向きの発想を見出すことになる。時おり、テクストやシナリオによって生き生きとした音楽像を発明することを強いられていた彼は、後にそれらをより観念的な使用法へと転化させることができるようになるのである。」 独唱者、合唱と管弦楽のためのカンタータ『愛の賛歌』は1897年4月27日にコペンハーゲンの音楽協会で初演された。この作品はニールセンが1891年にイタリアへの新婚旅行で目にしていたティツィアーノ・ヴェチェッリオの絵画『嫉妬深い夫の奇跡(英語版)』に霊感を受けて書かれている。写譜のひとつに彼はこう記した。「私のマリーイへ!これら愛を賛美する音色は現実に比べれば何物でもない。」 1901年よりニールセンはヴァイオリニストとしての給与に加えて国から多少の年金を受給するようになった。はじめは年800クローネであったが1927年には7,500クローネへと増額されている。これにより個人的な弟子を取る必要がなくなり、より多くの時間を作曲に充てられるようになった。また1903年以降は最も懇意にしていた出版社であるヴィルヘルム・ハンセンから年次依頼料が受け取れるようになっていた。1905年から1914年にかけては王立劇場で副指揮者を務めていた。1911年には娘婿のテルマーニー・エミルにヴァイオリン協奏曲 作品33を作曲している。1914年から1926年の間は音楽協会管弦楽団を指揮した。1916年にデンマーク音楽アカデミーで教員のポストに就き、その後生涯この職に留まった。 2つのキャリアによる負担と妻が近くにいない状態が続いたことにより、彼の結婚生活は長期の不和に見舞われた。両名は1916年に別離のための訴訟手続きに入り、1919年に双方の同意に基づく別離が認められた。1916年から1922年の時期には、ニールセンはしばしばフュン島のダムゴーやフールサングの地所に引きこもるか、ヨーテボリで指揮者として働きながら暮らした。第一次世界大戦とも重なったこの時期はニールセンの創作上の危機に数えられ、ファニングが述べるところのおそらく彼の最高傑作である交響曲第4番(1914年-1916年)や交響曲第5番(1921年-1922年)にも大きな影響を与えた。1920年代には長い付き合いであったデンマークの出版者ヴィルヘルム・ハンセンが、付随音楽『アラジン』や交響詩『パンとシランクス』の出版を引き受けられなくなったことに特に気を揉んだ。 6番目で最後となる交響曲第6番は1924年から1925年にかけて作曲された。1925年に重い心臓発作を患い活動を大幅に切り詰めることを余儀なくされるものの、この世を去るまで作曲は継続した。多くの祝いが寄せられた1925年の65歳の誕生日には、スウェーデン政府から勲章が贈られ、コペンハーゲンではガラ・コンサートとレセプションが催された。しかし彼は陰気な気分であった。1925年11月9日にデンマークの大衆紙『ポリティケン(英語版)』への寄稿文で次のように述べている。 もし人生をやり直せるのであれば、私は頭の中からあらゆる芸術的思考を追い払って、商人の見習いになるか最後には結果が目に見えるような何らかの有用な取引きに従事するだろう。(中略)全世界が私を認めたとして、しかしそれが早々に立ち去ってしまった後に私が作品と共にポツンと残され、すべてが壊れ果て、私は恥に思い至る、自分が愚かな空想家として生き、働けば働くほど、この身を我が作品に尽くせば尽くすほどよりよい地位に到達できると信じていたのだと。それが私にとって何の役に立つというのか。否、芸術家になることは羨ましがられるような運命ではないのだ。
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