円満寺の歴史とは? わかりやすく解説

円満寺の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/17 00:36 UTC 版)

円満寺 (古河市)」の記事における「円満寺の歴史」の解説

寺伝によれば平安時代大同4年809年)、弘法大師空海)が出羽湯殿山(山形県)参拝帰路当地訪れ堂宇建立したことが起源当初現在の円満寺から南に300mほど離れた字「寺家山」にあったが、室町時代古河公方家臣・諏訪三河守保護を受け、現在地移転したとされる当寺創建については、古河地域を含む下河辺荘領主であり、平安末期京都活躍した河辺氏関与指摘されている。寺に遺された密教法具四点は、平安末期京都経由もたらされたと推定される近隣所在の「関戸宝塔」にも京文化の影響見られ、下河辺氏造立考えられるまた、密教法具四点のうち国内とされる二点(独鈷杵五鈷鈴)の製作地京都推定されることから、奥州藤原氏栄えた十二世紀末頃、京都工人平泉赴いて技術指導をしていたこととあわせて、かつての古河地域は、京と平泉を結ぶ中継地点だった痕跡であると考えられている。 円満寺のある小堤城館跡は三重の堀・土塁(内掘・中堀外堀)に囲まれていた。現在も寺の北側西側内堀遺構がある。創建地の「寺家山」は、内堀中堀の間、すなわち小堤城館外郭にあったことから、当初領主持仏堂城域内に建立され、のちに城域全体寺院化した推測される同じよう事例として、太田市円福寺足利市鑁阿寺があり、この寺も城館主の信仰関連して創建されたと考えられる小堤城館の主に関しては、寺伝にある諏訪氏の他にも、古河公方重臣野田氏挙げられている。戦国時代天文23年1554年以降小堤地域野田氏知行地だった。また永禄3年1560年以降は、北方隣接する下野小山氏上杉謙信与し古河公方足利義氏野田氏対抗していたので、野田氏により「境目の城」として拡張整備され可能性がある。 江戸時代には「小島坊」とも呼ばれた。(『古河領分寺院書上』、『古河志』) また、小堤にある八幡宮香取宮・熊権現天神宮稲荷宮浅間宮・鷲宮別当寺にもなっていた。天保期(1830-1844年)には、年貢免除され除地が7反9畝あった。(『古河村鑑』) 村内もめごと円満寺調停した記録残されている。

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