伝承と歴史
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「ロックヒル (サウスカロライナ州)」の記事における「伝承と歴史」の解説
ロックヒルは、シャーロットからコロンビアまで鉄道を敷いたシャーロット・アンド・サウスカロライナ鉄道会社の所有道にあった石英岩の丘に因んで名付けられた。この岩の多くは鉄道を敷く為に取り除けられ、ロックヒルと呼ばれるようになった場所には駅が作られた。設立はロックヒル郵便局が開局した1852年4月17日であったが、公式には1870年に自治体化された。ロックヒル市は1952年に設立100周年、2002年に150周年を祝った。 ロックヒル市境にある標識には「人種差別の余地は無い」と書かれている。市の象徴はデイブ・ライル・ブールバードにある「シビタス(市民)」の彫像4体である。それぞれが市内にある4つの産業を表す円盤を持っている。デイブ・ライル・ブールバードのゲイトウェイ広場にあるシビタスの彫像は1991年4月に設置された。高さ20フィート (6 m) の銅像であり、ニューヨークの彫刻家オードリー・フラックが制作した。1年後に5番目のシビタスが市役所のロタンダに据えられた。 ロックヒルは、ケロッグ社のシリアル食品「ライス・クリスピーズ」の箱に描かれたマスコット漫画「スナップ、クラックル・アンド・ポップ」を制作したことで有名な商業デザイナー、故バーノン・グラントの故郷である。グラントはサンタクロースの絵を多く描いたことでも知られる。またロックヒルで毎年春に開かれる祭、カム・シー・ミーのマスコット、グレン・ザ・フォッグも制作した。グラントの作品は毎年開催されるクリスマスビル・ホリデー祭にも登場する。 ロックヒル・オラトリオのメンバーによって設立されたロックヒルのセントアン・スクールはサウスカロライナ州初の人種差別を撤廃した学校だった。差別撤廃の時はこの学校が全国ニュースに載った。この学校は移転するが、新しい場所の正面に飾り額を受けることになっている。公民権運動の時はロックヒルで2つの重要な事件があった。1961年2月、9人のアフリカ系アメリカ人が人種分離を行っているマックロイのランチカウンターでシットインを行った後、ヨーク郡プリズンファームにある刑務所に行った。この事件では、南部中に広まったシットイン運動で公民権運動団体が直面していた莫大な財政的負担を軽減するために、「ジェイル・ノー・ベイル(刑務所、保釈金無し)」と呼ばれる新しい戦略に従ったことで、全国的な注目を集めた。事件は全国紙で広く取り上げられ、他の公民権運動団体もこの戦術を採用した。行動を起こした9人のうち8人はロックヒルにあるフレンドシップ・ジュニア・カレッジの学生だったので、フレンドシップ・ナインと呼ばれるようになった。その年遅く、ワシントンD.C.から南部に向ったバスに13人のフリーダムライダーズが乗った。ロックヒルがディープサウスではその最初の停留所だった。これは州に跨る全ての公共機関での人種分離を違法とした1960年のアメリカ合衆国最高裁判所判決をテストするためだった。公民権運動指導者のジョン・ルイスなどメンバーがバスから降りると、白人暴徒に殴られることになった。 2002年、このときジョージア州選出アメリカ合衆国下院議員になっていたルイスはロックヒルに凱旋し、ウィンスロップ大学で講演し、市に入る鍵を渡された。2008年1月21日、ルイス議員は再度ロックヒルを訪問し、市が行うマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの祝日祝典で講演した。このとき市長のダグ・エコルスはフリーダムライダーズに対して市民の採った行動について公式に謝罪した。
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伝承と歴史
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空海(弘法大師)が大同2年(807年)に修善寺を訪れたとき、桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させた。大師が温泉が疾病に効くことを説き、これにより父子は十数年来の固疾を時間を置かずして完治させることができた。という伝承が残っている。これよりこの地方に湯治療養が広まり、修善寺温泉が始まったとされる。 戦前までは岩の隙間などから自然に湯が湧き出ていたと伝わるが、現在[いつ?]は給湯管で湯を引き入れている。かつては、修善寺温泉に7箇所あった外湯のひとつであったが、現在[いつ?]は同温泉地のシンボルとして位置づけられ管理されている。 独鈷の湯は、川中に突き出たその形状のために、豪雨の際に流れが阻害され、氾濫を引き起こす原因となりかねないとして、県の計画により、2009年4月に19m下流の川幅の広い位置に移動させられた。
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伝承と歴史
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ファンガヌイ川にも、マオリの伝承が残る。トンガリロとタラナキ(タラナキ山)がタウポ湖湖畔のピハンガ(英語版)を巡って衝突をした。タラナキは、この三角関係を清算するために、ピハンガのそばを去ったほうがいいかどうかをルアペフに相談した。その結果、タラナキ山は、ピアンガのそばを離れ、西へと向かった。ファンガヌイ川は、そのタラナキの涙で満たされたというものである。 ファンガヌイ川とマオリの歴史は、彼らが上陸した約600年前からつながる。ファンガヌイ川は、北島の交通の結節点であり、マオリは、現在のウェリントン、ワイカト、タウポ、ベイ・オブ・プレンティへ移動する際には、この川を利用してきた。川の移動にはもっぱら、カヌーが利用された。 ヨーロッパ人がこの地方に集住を開始したのは、1840年代のことである。宣教師の一団は、ファンガヌイ川の渓谷の各地に村と礼拝堂を建設してきた。ファンガヌイ川に定期の船便が就航したのは、1891年のことである。河口のワンガヌイと上流部のタウマルヌイの間に就航した定期便では、多くの人々、郵便、貨物が運ばれた。その結果、1920年代には、道路の建設が完成したことにより定期の船便は役目を終えたが、一方で、ファンガヌイ川流域に観光業が勃興することとなった。
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