伝承と変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:07 UTC 版)
賀茂別雷神社には以下のような言葉が残されており、 賀茂の本縁は昔より一社の深秘にて、社家の中にも神気にあらざれば浅略の儀を伝えて相承の奥儀をゆるし伝える事なし。況や他授に及び外に伝へる事なし — 賀茂注進雑記 神饌に関する作法の多くは、神への供物という性質から世俗の物とならないよう社家の中でも信頼のおける者が世襲し、無闇に広まらないよう伝承されてきた。そのため、書物として残るものは多くが個人が覚書として残したものに留まり、公式な記録として残されたものは少ない。これは神饌の調製に関しても同様で、文書による記録が残されておらず、なぜこれを奉げるのか不明となっている神社も存在する。だが、一部には伝承が困難になったために、作法を記録として残した神社もある。1871年(明治4年)の太政官布告により代々神職を世襲した社家制度が廃止され、香取神宮では『香取神宮年中祭典記』などの文書で祭祀の内容を記録し伝承を図った。その中には忌火の熾し方、必要な道具類、使用方法、行器の原料になる真薦の刈り方、その編み方、魚の調理、干し方、焚煙の作り方などが挿絵とともに記録されている。 氏子が神饌の調製を行っていた地域では、宮座と呼ばれる組織によってその作業が伝承された。宮座の中で主導的役割を果たす家を頭屋、あるいは当屋(當屋とも書く)とよび、中心となる人物を頭人と呼んだ。制度の内容は『神道要語集』に残され、頭人には厳格な物忌が求められた。美保神社のように、選ばれると4年間欠かさず禊を行い、子の刻(0時ごろ)に神社へ参拝し、その間に人と会うと再度やり直すなど厳格な取り決めが残る神社もある。こうして頭人となると、さらなる修行として一切の不浄を排除した部屋へ篭り、女性はおろか、みだりに人と会うことも禁じられる程の精進が求められる場合もあった。このように頭人は村人からの敬意を受け、権威を備えなければならないとされた。なお、宮座の構成員は原則として世帯主の男性とされたが、女房座、女座、可加座と呼ばれる女性の座もあった。 2012年現在、地方の神社では後継者不足に悩まされる例が少なくない。奉納する餅だけでも量にしてもち米8升分に及ぶなど、多くの人員や時間を要する場合があり、氏子の手作業ですべてを賄うことが難しいため、既に蒸して搗かれた餅を商店から購入し、氏子の手で加工・成型するなど、一部を商店などに委ねざるを得ない状況になっている。 本来、北野天満宮では、7日間の間詰所に篭り、女性の作った料理は口にしない。そして、男だけで調理し、神事に臨むとされたが、2012年現在では仕事との兼ね合いから、3日間肉食を断つ程度に緩和して臨んでいる。しかし、これは単純な後継者不足というわけではなく、菅原道真が大宰府へ流された際に同行した従者達が北野天満宮の建立の折に道真の遺品を携え京都へ戻り、それ以来自ら調理した神饌を献供して、慰霊を行いながら暮らした古事にあやかり、その従者達の末裔である七保会が神饌の調理を行うことが理由である。 「北野天満宮」および「菅原道真」も参照
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