伝承での十八騎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 02:55 UTC 版)
綱島十八騎の名は、『新編武蔵風土記稿』や、綱島の古刹・綱島山長福寺の由緒、綱島村総鎮守・諏訪神社の由緒等に登場するが、それぞれ少しずつ伝える内容が異なっている。 『新編武蔵風土記稿』:『巻之六十六、橘樹郡之九、南綱島村』の項に記載。北条氏滅亡の頃、近藤正次が当地に所領300石を与えられ、綱島十八騎の頭となったという。近藤以外の17人の名は不明。「此等ノ人々ハ、北条家滅亡ノノチ、東照宮二属シ奉リ甲州侍武川衆ナドトイへルモノノ如ク、綱島ニテ采邑ヲ賜リシユヘ、カク唱ルナルベシ」としている。また、近藤正次が長福寺を開基したと伝える。 長福寺開基の由緒:綱島十八騎を戦国時代の西国の落武者であると伝える。その中の一人、児島賀典(改姓し佐々木姓となる)が1592年(文禄元年)に出家し、同寺を開山したという(山門前の石碑より)。 諏訪神社創建の由緒:綱島十八騎を近藤正次を首領とする甲州武田家の家臣団と伝える。天正(1573年~1593年)の頃、綱島を領有したという。武田信玄と同じく信濃の諏訪大社を篤く信仰し、信濃から綱島へ下る際、諏訪大社境内の桜の一枝を折り、馬の鞭にして馳せ参じた。綱島の小高い丘で諏訪大社を遥拝し、武運長久を祈り「もし験しあるならば根付かせよ」とこの桜の鞭を挿木したところ、根が生え大樹となったという。この験しにより綱島十八騎は小田原征伐、関ヶ原の戦いで武功を上げ、1605年(慶長10年)ころ、諏訪明神を勧請し諏訪神社を創建したと言う(諏訪神社境内の由緒書より)。
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