伝承と記録
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トンブクトゥに伝わるマフムード・カアティの『探求者の歴史』の写本によると、ヒジュラ元年以前に22代続く白人(この場合アラブを含む)王朝があり、その後も22代続いたという伝承が収録されているが、同書は16世紀に作成されたものである。11世紀コルドバの歴史家、アブー・ウバイド・バクリーの著書『諸道と諸国の書(英語版)』のガーナ王国に関する記載は比較的信頼できるとされている。これは、10世紀頃にサハラを越えて旅をした人々からの証言を集めたものである。 バクリーは、ガーナ王国について、「イスラム教徒にとって異教の国家であったが、彼の時代にイスラム教の影響を受け入れ始めた唯一の黒人国家である」としている。11世紀ごろのガーナ王国の首都は al-ghaba すなわち「森」と呼ばれた。王の住んでいる場所は、柵で仕切られ、特徴的な円錐状の屋根をもつ小屋が連なっていたという。バクリーはガーナ王国について次のように書いている。 王は、女性がつける装飾品を首や腕につけていた。また良質の綿でできたターバンにくるまれた金の刺繍のされた帽子を(王冠として)かぶっていた。王は、臣民に謁見し、臣民の苦情を調整し、解決するときに使った小屋の周りには、金の馬飾りをつけた10頭の馬がいた。彼の背後には、金で飾られた盾や剣を運ぶための奴隷たちがいた。王の権力は、彼の封臣でもある王の息子たちの頭から金を編みこんだ高価な外套を着せる力に基づいていた。王の周りには、大臣たちが座り、王の前には、都市の統治者が座った。王宮のドアには、首輪に金や銀の玉飾りをつけた、血統のすぐれた犬たちがおかれて、守られていた。王の謁見式はドラムを叩くことで人々に知らされた。彼に従う異教徒(=臣民)たちは、這って王のかかとに近づき、尊敬の印として、自ら「ほこり」を頭上に撒き散らした。イスラム教徒は、あいさつの印として手を打ち鳴らした。 王が死ぬと、王の遺体が埋葬された場所に大きな木の小屋が建てられた。その小屋には、王の食べ物や飲み物を捧げるために王が生前に飲食に使用した器が置かれた。食べ物や飲み物を捧げる人々は、墓の入り口を安全に保つため、小屋にマットや布を被せて土をそのうえにかけたので、自然地形の丘そっくりに見えた。 ガーナ王国の王は、セネガル川上流のバンブク (Bambuk) を支配していた。直接、金鉱を掘るコミュニティを支配していたわけではないが、金鉱を掘るコミュニティとの接触を独占的に支配していた。また1050年頃、アウダゴスト(英語版)を占領して支配し中継貿易の利益をますます吸収していったが、その繁栄は、モロッコのムラービト朝の嫉視を浴びることとなった。
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