楯無鎧の伝承と記録
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楯無鎧は甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された「楯無」の号を持つ鎧で、御旗(みはた)と呼ばれる義光から受け継いだ日章旗と対になっている。御旗は甲州市塩山上萩原の雲峰寺に所蔵されている。 戦国時代には、戦国大名となった武田氏の家中で神格視され、御旗楯無に対して「御旗楯無も御照覧あれ」と誓い出陣したという。武田信玄は楯無鎧を鬼門鎮護のため甲府から北東にあたる山梨郡於曽郷(甲州市塩山上於曽)の菅田天神社宝殿に納め、武田氏の一族である於曽氏が管理し必要に応じて持ち出されたという。 天正10年(1582年)、武田氏滅亡に際して武田勝頼の家臣の田辺左衛門尉により向嶽寺の杉下に埋められたという。その後、甲斐を領した徳川家康により回収され再び菅田天神社に戻され、江戸時代には盗難に遭い破損し、寛政10年(1798年)には補修、文政10年(1827年)に補修が行われたという。昭和27年(1952年)11月22日に「小桜韋威鎧 兜、大袖付」(こざくらがわおどしよろい かぶと、おおそでつき)として美術工芸品の区分で国宝に指定された。 楯無鎧に関する文献資料で最も古いのが甲府市太田町(旧地は一条小山)の時宗寺院である一蓮寺に伝わる『一蓮寺過去帳』で、鎌倉時代の当主武田信光の阿弥号を記した箇所には、「武田氏系図」を典拠に信光が射法と楯無鎧を相伝したことが記されている。 武田氏は鎌倉時代に信時流武田氏が安芸国守護職を継承し、甲斐では一族の甲斐一条氏が足跡を残し、南北朝時代に信時流武田氏が再び甲斐へ土着し甲斐守護職を継承している。『一蓮寺過去帳』編纂に際して用いられた「武田氏系図」は、現存する『一統系図』の前身となる系譜資料であったと考えられているが、『一統系図』では楯無鎧は信光以後に甲斐一条氏を経て信時流武田氏に相伝されたことが記されており、家督継承に際して嫡子に相伝される伝承は信時流武田氏の甲斐支配を正当化させるために成立したと考えられている。 また、戦国時代の永禄9年(1566年)に長野県上田市の生島足島神社に奉納された信玄への忠誠を誓う起請文には親族衆武田信廉をはじめ楯無鎧について記載されているものが含まれており、戦国時代には武田家臣団の間で楯無鎧が神格化されていたことが確認されている。 戦国期では他に楯無鎧について記されている文書や記録は見られず、近世には『甲陽軍鑑』をはじめとする軍学書や地誌類に楯無鎧に関する記録が見られる。『軍鑑』では武田信虎が自身の馬を所望する嫡男勝千代に対して「義広の御太刀」「左文字の刀脇指」「二十七代までの御旗・楯無」の相続を約束する逸話が記され、楯無については「新羅三郎御具足」であると説明されている。 また、『軍鑑』に拠れば勝頼期の天正3年(1575年)には長篠の戦いにおいて武田方が織田信長・徳川家康連合軍に敗北した際に、武田家臣団のなかで撤退論が主張されるなか、抗戦を主張する武田勝頼は楯無鎧に対して誓約を行い、反対していた家臣らもそれに従ったという逸話が記され、武田家当主が御旗・楯無に対して誓約したことは改変できないものであったという作法を説いており、『軍鑑』が成立した17世紀初頭にはこれらの伝承が成立していたと考えられている。 さらに、『軍鑑』に付随して成立した『甲陽軍鑑末書』『信玄全集末書』などでも楯無鎧を着用した武田信昌は合戦において矢を通さなかった霊験あらたかな鎧であったという逸話を記している。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった楯無を着せ、そのあと父子で自刃したという悲話が残っている。
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