人類種の進化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 21:01 UTC 版)
個人の人格的成長は、常に、関係性のなかで展開するものである。Robert Kegan (1994) の指摘するように、成長は、周囲の適切な介入――支援(support)と挑戦(challenge)――を必要とする。それらは、成長への潜在能力を解発する必要因子として機能するのである。そして、そのどちらが欠落しても、成長はありえないのである。必然的に、人間の意識の深化の可能性について探求するうえで、「個」(the individual)と「集合」(the collective)の有機的な関連性を把握することは、非常に重要となる。 インテグラル思想を構築するうえで、ウィルバーは、こうした課題について綿密な議論を展開している(Wilber, 1981/1996, 1983/2005, 1995/2000)。「個」と「集合」が重要な性質上のちがいをもつことを認識したうえで、ウィルバーは、それらを、人類の進化に参与する2つの重要要素として位置づける。 人類の進化とは、「個」の進化と「集合」の進化を相補的なものとして内包しながら展開する過程である。そのため、人間は、個人としての救済を追求しようとするとき、不可避的に、共同体の進化に取り組むことを要求されるのである。 インテグラル思想においては、「個」の進化と「集合」の進化は、霊(Spirit)という基盤のうえに、そして、霊の顕現として展開するプロセスの2つの側面である。霊との「つながり」(identity)を自らの本質的な条件として認識することを窮極的な救済としてとらえるインテグラル思想において、自らの本質的な課題として、これらの側面における成長(治癒)に取り組むことは、必須の課題なのである。 しかし、現代において、進化という概念を――自然世界ではなく――人類に適応することの妥当性には疑問が投げかけられている。ウィルバーは、そうした状況が存在する背景には、大別して3つの勢力が存在することを指摘している。 過去の宗教的世界観を踏襲する伝統主義者にとり、「人類進化」を伝統的な世界観の否定をとおして達成されるものとしてとらえる現代の歴史観は、受容することのできるものではない。伝統主義者にとり、今日において、「進化」と見なされているものは、むしろ、正当な世界観を継承することに失敗する過程、すなわち、「堕落」の過程として見なされるべきものなのである。 人類の歴史を太古に存在していた「楽園」("Eden")を「追放」されることを契機として始まる「堕落」の過程として見なす回顧的浪漫主義者("Retro-Romantics")にとり、進化のダイナミクスが人類に働いているという見解は受容できるものではない。彼らにとり、人類の歴史とは、「楽園」を「追放」された堕落した存在による「罪」の歴史なのである。そして、大量消費主義という思想を基盤として惑星規模で自然資源を搾取する体制を確立した現代という時代は、人類の「罪」が最大限に肥大化した時代なのである。こうした状況において、彼らが希求するのは、太古に存在していた「楽園」へと回帰することである。 今日、惑星規模で展開する現代文明を構築することをとおして、人類が、進化の最終的な目的地に到達したと信じる合理主義者にとり、今後、質的にさらに高度な認識構造、そして、それを基盤とする世界観が発生するとは信じがたい。実際、「意識の進化」という標語のもと、新しい世界観("New Paradigm")として提唱されるものは、おうおうにして、これまでの歴史のなかで獲得された成果を蔑ろにした退行的(regressive)なものである。彼らにとり、人類の進化とは基本的に完了しているのであり、今後、必要とされるのは、こうして確立された成果を展開していくことなのである。 これらの「立場」は、独自の価値構造を基盤とするものであるが、それぞれは、あらゆる価値構造がそうであるように、何らかの重要な真実をとらえるものであるとともに、また、必ず何らかの盲点を内包している。現代において必要とされているのは、これらの「立場」の内包する真実と盲点を認識したうえで、人類進化の妥当性を確立することであるとウィルバーは主張する。人類進化という概念を復権するために必要となる重要法則としてウィルバーは、下記のものをあげる。 進化の両義性:進化とは、現在の段階において解決することのできない課題・問題を高次の段階を構築することをとおして解決する過程である。しかし、そうした高次の発達段階を構築することをとおして、過去の段階には存在しなかった問題・課題を創造することになる。その意味で、進化とは、常に、新しい可能性と新しい危険性をもたらす過程であるということができる。また、進化の過程で、超越と継承(transcend and include)という法則のもと、共同体の構造が複雑化するなかで、共同体は、その複雑性ゆえに、必然的に比較的に単純な構造においては存在しえない問題・課題を包含することになる。人類の進化について検討するうえで、高次の構造を構築するということが不可避的に内包することになる両義性に注目することが非常に重要になる。 差異化と乖離の識別:進化の過程に働く重要な法則のひとつとして、「差異化」(differentiation)がある。これは、当初はひとつのものとして混乱・混同していたものに秩序をあたえて、そこに内包されていた要素を明確化して、新しい関係性のなかに位置づけることを意味する。例えば、個人の意識の深化において、理性的な構造としての自我を確立して、自己の身体を対象化することは、肉体的衝動の絶対的な支配からの自己の自由を確保するために、必須の課題となる。しかし、そうした差異化が過剰なものとなるとき、身体は個人の自己(identity)の構成要素として抱擁されず、結果として、乖離(dissociation)することになる。今日、個人の領域において蔓延している身体性の乖離は、共同体の領域においては、自然(nature)との乖離をもたらす。こうした病理は、今日、惑星規模の深刻な自然破壊として結実している。進化の過程において、差異化は非常に重要な法則であるが、これは、また、常に乖離の危険性を宿していることを認識する必要がある。 超越と抑圧の識別:進化の過程において、高次の構造は、常に、低次の構造を対象化して、自己の構成要素(基盤)として抱擁する。これにより、高次の構造は、自己の構成要素として抱擁された対象に対して支配力を行使して、操作することができるようになるのである("downward causation")。しかし、こうした低次階層への操作能力は、時として、歪なかたちで行使され、結果として、諸々の病理を生みだすことになる(例:抑圧・否認・歪曲)。進化の過程において、高次構造の構築は、人間に、低次構造の絶対性を解消することをとおして、より包括的な視野から行動することを可能にする非常に重要な活動である。しかし、そこには、また、諸々の病理を生みだす可能性が内包されていることをわれわれは留意しなければならない。 自然なヒエラルキーと病的なヒエラルキーの識別:進化の過程において、ある発達段階において全体であるものが、次の発達段階においてより包括的な全体の構成要素として抱擁されることになる。そして、より高度の統合能力をもつ構造に抱擁(embrace)されることにより、それそのものとしては所有していない意味(価値)を賦与されるのである。 こうした高次と低次の関係性(ヒエラルキー)は、いうまでもなく、このコスモスのあらゆるところに見いだされるものである。その意味で、ヒエラルキーは、自然の組織法則と形容することができるだろう。しかし、また、「抱擁」を基本法則として展開するヒエラルキー構造は、とりわけ人間の活動領域においては、常に、諸々の病理をひきおこす病的なヒエラルキーへと転じる可能性を内包している。従い、人類の進化について検討をする際、ヒエラルキーという法則が、実際に自然なものとして発現しているのか、もしくは、病的なものとして発現しているのかについて注意をする必要がある。 高次の段階が低次の衝動に掌握されてしまう可能性があること:高次の構造により創出された装置・技術・機能は、常に、低次の衝動・欲求により利用される危険性を秘めている。とりわけ、今日のように、大量破壊兵器等、最先端の科学技術を利用して開発された装置が大量生産・大量販売されている状況においては、そうした装置を開発するための必要能力をもちあわせていない人々も容易にそれらを購入・使用することができることになる。結果として、合理性の創造物である装置が、神話的合理性段階の部族主義的な衝動にもとづいて利用されることになるのである。上記のように、進化とは、常に、可能性と危険性の両方を増幅する過程である。人類の進化について検討をする際、共同体のなかに並存する複数の発達段階の行動論理がどのような相互作用をしながら、可能性と危険性を発露させているかを慎重に考察をする必要があるのである。 「前・後の混同」("Pre/Post Fallacy")の項目においても述べたように、目前に展開する世界があまりにも過酷な苦悩に特徴づけられるとき、われわれは、しばしば、そうした世界をもたらした歴史の過程を進化の過程ではなく退化の過程であると思いこむようである。そうした意識状態においては、それらの苦悩が高度の意識構造を構築することにより獲得されたものであることは無視され、ただ、その瞬間に経験される苦悩の重圧のみが注目される。そして、その感覚を正当化するために歴史観が構築されるのである。こうした「錯覚」を回避するために、上記の法則は非常に重要な意味をもつといえるだろう。
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