前・後の混同(ウィルバーⅡ)
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「ケン・ウィルバー」の記事における「前・後の混同(ウィルバーⅡ)」の解説
「前・後の混同」(“Pre/Post Fallacy”)とは、実際には非常に異なる2つの成長段階をある共通項の存在を理由に短絡的に混同することを意味する。 『アートマン・プロジェクト』(The Atman Project)と『エデンより』(Up from Eden)(これらは、ひとつの作品として構想された)の執筆中、ウィルバーは、深刻な思想的危機を経験する。これは、『意識のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)において展開されたモデルが内包していた問題が、これらの作品の執筆過程のなかで朧気に認識されはじめたことに起因するものであるという。 『意識のスペクトル』において、ウィルバーは、人間の意識成長の過程を次のように描写した。 誕生の瞬間において、人間は、「堕落」(the Fall)を経験するまえの「至福」の状態にある。しかし、成長の過程のなかで、人間は、徐々に、こうした「至福」の状態から苦悩に満たされた状態へと「堕落」していく。それは、誕生の瞬間に存在していた霊とのつながりを喪失することなのである。意識の成長とは、こうして「堕落」をとおして「喪失」された霊(Spirit)とのつながりを恢復する過程なのである。 しかし、『アートマン・プロジェクト』と『エデンより』の執筆中、ウィルバーは、こうした認識が「堕落」というものについての、誤解を内包していたことを認識する。この誤解について、ウィルバー(1983/2005)は、後日、次のように総括している。 『意識のスペクトル』が内包していた問題とは、2種類の「堕落」(the Fall)――「存在論的堕落」(“metaphysical fall”)と「心理的堕落」(“psychological fall”)――の混同と形容できるものである。「存在論的堕落」とは、霊との意識的な同一感覚の喪失、そして、それにもとづく「罪」(疎外・別離・二元性・有限性)の世界への埋没である。そして、「心理的堕落」とは、自らがそうした堕落した状況にあることの内省的な認識である。 霊とは、この現象世界の基盤であり、あらゆる存在は一瞬たりともそれと疎外された状態で存在することはできない。つまり、この現象世界のあらゆる存在は、常に完全なかたちで霊と結びついており、また、霊の顕現として存在しているのである。したがって、人間の直面する問題は、霊との結びつきをいかにして確立するかということではなく、むしろ、霊との結びつきが確立されていることをいかにして認識するかということなのである。 人間は、成長過程において、内省能力が成熟してくると、自らが「罪」の世界に生きていることを認識するようになる。内省能力の成熟がもたらすこうした認識は、不可避的に、精神的な苦悩を醸成することになる。そして、そうした苦悩は――もしそれを抑圧することなく対峙することができるならば――われわれを自らを救済するための積極的な取り組みへと突き動かすことになる。ウィルバーは、こうした成熟した内省能力の確立を契機としてもたらされる精神的な転換を「外的方向性」(“Outward Arc”)から「内的方向性」(“Inward Arc”)への転換と形容するが、それは、人間の人格成長がより高度の成熟段階であるトランスパーソナル段階へと向かうことができるために必要とされるものなのである。つまり、「存在論的堕落」の解決の可能性は、世界に存在することが構造的に内包する問題(「罪」)と対峙することが醸成するこうした苦悩の経験――「心理的堕落」――をとおしてもたらされるのである。 人間は、世界に誕生することそのものをとおして、「存在論的堕落」を経験している。その意味で、すべての人間は生まれながらにして「地獄」(“Hell”)に存在しているのである。しかし、自らが「地獄」に存在していることを認識することができるためには、そうした認識を可能とする内省能力を構築する必要がある。そうした能力が構築されるまでは、人間は、「存在論的堕落」という自らの状況そのものを把握することができず、結果として、「無意識的地獄」(“Unconscious Hell”)を生きることになる。 そうした自己内省力を欠如した状態にある人間の姿は、傍目には平穏に見えるかもしれない。しかし、実際には、その自覚が欠如しているだけで、当人の存在は「罪」に特徴づけられている。内省力の欠如は、内的な平穏という外観をあたえはするが、実際には、彼らの存在は、自らの存在論的状況に自覚的である人間と同様、「罪」に起因する諸々の執着により特徴づけられているのである。むしろ、自らが救済を必要としていることを認識することができていないという意味では、「天国」(“Heaven”)と最も乖離したところにいる状態ということができるだろう。真の救済のために必要とされるのは、そうした虚偽の平穏状態に留まることではなく、自らが救済を必要とすることを自覚することなのである。そして、これは、いわば、「無意識的地獄」を脱却して「意識的地獄」(“Conscious Hell”)へ前進していく行為ということのできるものである。こうした成長をとおして、人間は、はじめて「意識的天国」(“Conscious Heaven”)に到達するための可能性を生みだすことができるのである。 意識成長の過程をとおして内省能力が確立されてくれば、結果として、人々は、「意識的地獄」のなかで、苦悩と苦闘しながら日常を暮らすことになる。そうした状況に置かれた人間の視点には、しばしば、自己を執拗に苦悶させる苦悩から「解放」されることが、救済の証左として意識されるようになる。実際には、そうした苦悩は、「無意識的地獄」から「意識的地獄」への移行という非常に重要な意識深化の過程を経て獲得したものであるにもかかわらず、そのあまりの重圧のために、苦悩の存在しないことそのものが救済であると思いこんでしまうのである。こうした精神状態において、「無意識的地獄」と「意識的天国」とが――「意識的地獄」を特徴づける苦悩に煩わされていないと意味において――どちらもあたかも同じものであるように思われてくるのは自然なことであるといえるだろう。「前・後の混同」(“Pre/Post Fallacy”)とは、このように実際には非常に異なる成長段階をある共通項の存在を理由に短絡的に混同することを意味する。そして、ウィルバーが説明するように、『意識のスペクトル』は、まさに、こうした混同を犯していたのである。 普通、こうした混同は、結果として、2つの混乱を生みだすことになる。ひとつは、高度の成長段階(例:トランスパーソナル段階)を低度の成長段階(例:プリパーソナル段階)として誤解すること(“Reductionism”)。そして、もうひとつは、低度の成長段階(例:プリパーソナル段階)を高度の成長段階(例:トランスパーソナル段階)として誤解すること(“Elevationism”)である。前者の典型的な例としては、高度の宗教的体験を病的な退行体験として解釈するものがあげられる。そして、後者の典型的な例としては、幼児的な体験を高度の宗教的体験として解釈するものがあげられる。 いうまでもなく、こうした理論的な混同は、実践的な混乱をもたらすことになる。例えば、前者の場合、突発的・瞬間的に経験された宗教体験を構造的な意識変容の過程を促進することをとおして統合することが重要になるときに、それを病的な退行体験として誤解することにより、薬物投与等の不適切な介入がなされることになる。また、後者の場合、人格構造が脆弱であるために発生した病的体験を高度の宗教体験として誤解することにより、そうした状況において必要となる人格構造の補強を志向する介入方法ではなく、瞑想等の人格構造を対象化する介入方法が実践されることになる。これらの実践的な混乱は、臨床現場においては、時としてクライアントのなかに深刻な「傷」を生みだすことになる危険性を孕むものである。 ウィルバーの報告によれば、これまでの執筆活動において、こうした枠組は、普通、瞬間的な霊感のなかにもたらされるという。例えば、この「意識のスペクトラム」理論の場合、集中的な瞑想体験の最中に経験した、この惑星における生命の歴史をその主体として追体験するような体験のなかにもたらされた洞察を理論化したものであるという(こうした体験は集中的な瞑想体験においては必ずしも珍しいものではない)。
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