主要な散文作品について
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「ジョナサン・スウィフト」の記事における「主要な散文作品について」の解説
ジョナサン・スウィフトは多作な作家であった。彼の最近の散文作品集(ハーバード・デイビス編、バジル・ブラックウェル、1965年-)は14巻から成る。彼の全詩の近年の版(パット・ロッジス編、ペンギン叢書、1983年)は、953ページの厚さになる。彼の書簡集の一版(ディヴィッド・ウリー編、P・ラング、1999年)は3巻を占める。 ジョナサン・スウィフトの著作の主題やテーマは、大概彼の人生における出来事や関心事を辿っているようだ。これは、彼の批評家がその作品群の本当の意味を明らかにする手段として、伝記や確定した事実、そして多くの議論ある事項に大いに注意を払う理由の一つである。ことによると過剰な簡略化かもしれないが、彼の最初期の作品からは、いかに彼の人生における哲学論の学問的興味を示しているかを見ることができ、聖職者と陳情者の双方としての教会との関係に移り、次いでその筆をトーリー党に傾けて政治的問題に転じ、そして最終的には彼が流された国の弁護に立ってアイルランドの人々の問題を取り上げた。こうした大きな流れの至るところに、スウィフトの精神生活に関するじれったくもはっきりしないヒントを与える個人的な著述がある。 『次なる年の予言』 1708年、ジョン・パートリッジという名の無学な靴直しが占星術の予言に関する通俗暦を出版した時、スウィフトはアイザック・ビッカースタッフとして『次なる年の予言』を出し、パートリッジは3月29日に死ぬだろうというパロディ予言でパートリッジを攻撃した。スウィフトはさらに引き続いて3月30日にパンフレットを発行し、パートリッジは実際に死んだと主張した。これとは反対のパートリッジの声明にも関わらず、それは広く信じられた。 『ドレイピア書簡』、『穏健なる提案』 『ドレイピア書簡』(1724年)では、イングランド政府によってウィリアム・ウッドに認可されたアイルランドに対する銅貨鋳造の独占に反対した。1729年には、スウィフトは『穏健なる提案』を書いた。これは提案を作成するに先立ってアイルランドを注意深く研究した知的かつ客観的な「政治的算術家」によって書かれたものと推定される。著者は人口過剰及び栄養不足人口の増加という両方の問題について、冷静に一つの解決法を提案している。それは、そうしなければ飢えるか酷使される彼らの子供たちを飼育し、もって一般大衆の食用に供することである。『穏健なる提案』(1729年)において語り手は、アイルランドの貧困は彼らの幼子を富貴層の食料として飼育することによって解決されうると、意図的にグロテスクな論理で推奨している。 『ガリヴァー旅行記』 『ガリヴァー旅行記』は1726年に発行された。日本では子供向け文学、あるいは絵本として翻訳される事が多く、原著も子供向けの本と誤認される事が多い。しかし実際は大いなる時事諷刺であり、性的なものも含めて子供には解せない内容を含んでいる。『ガリヴァー旅行記』とは厭人的な人間性の解剖、冷笑の眼鏡である。それは読者に本書を反駁してくれるよう、そしてそれが人間性や社会を適切に特徴づけていないと否定するよう求める。これら四冊の本はいずれも異なったテーマを有するが、すべて人間の矜持を挫く試みである。 『桶物語』 スウィフトの最初の主要な散文作品『桶物語』は、彼がのちの仕事に活用することになる多くのテーマや文体の技巧を示している。標的にひどく辛辣で時に厳しく批判的である一方で、やたらと遊び心に満ち、滑稽である。『物語』の主要な筋は、父から遺産としてめいめいコートを受け取り、たとえ何であっても代わりのないものを作るよう指図された、キリスト教の主要な考え方を象徴する三人の息子の手柄を詳しく述べるものである。ところが、息子たちはすぐに彼らのコートが当世の流行遅れと知って、必要な仕立て直しを許容するよう父の遺言の抜け穴を探し始める。それぞれが父の戒めを逃れる己自身の手段を見つけると、彼らは権力と支配を求めて互いに争う。この話に挟まれて、章を改めるたびにスウィフトは様々な主題に関する一連の風変わりな「論説」を含めている。 『書物合戦』 1960年、スウィフトの後援者ウィリアム・テンプル卿は、『ファラリス書簡』を模範として称揚し古典を弁護する『古代と近代の学問に関する小論』を刊行した(古典と近代論争を参照)。ウィリアム・ウォットンは『古代と近代の学問に関する感想』でテンプルに応じ、その『書簡』が後世の贋作であることを示した。古代の支持者による返答は、チャールズ・ボイル(後の四代目オーラリー伯にしてスウィフトの最初の伝記作家)によってなされた。なおも現代側による逆襲は、その時代の傑出した学者の一人、リャード・ベントリーの随想『ファラリス書簡論』より来た。しかしながら、この論題に関する掉尾を飾るのは、テンプルと古代の主張にかわってユーモラスな弁護をなしたスウィフトの『書物合戦』(1697年)である。
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