ヴェン島の領主として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:56 UTC 版)
「ティコ・ブラーエ」の記事における「ヴェン島の領主として」の解説
ティコはしばしば学生と妹のソフィーア・ブラーエ(英語版)の助けを受けながら、精密な観測を続けた。1574年、ティコは1572年のヘアヴェウ修道院(英語版)での最初の観測情報を公表した。彼はその後、天文学の講義を始めたが、それを諦め1575年の春にデンマークを去って国外周遊に出た。彼は最初にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世(英語版)を訪れ、その後フランクフルト、バーゼル、ヴェネツィアを訪れた。ヴェネツィアではティコはデンマーク王フレゼリク2世の代理人として行動し、フレゼリク2世がエルシノーの新しい宮殿に望む芸術家や大工と接触した。ティコが帰国するとフレゼリク2世はティコの家柄に相応しい地位を与えることでその献身に報いたいと望み、ティコにハマスフース(英語版)城やヘルシンボリ城のような軍事的にも経済的にも重要な場所の支配者となるように申し出た。しかしティコは科学を探求することを好み、領地経営を行う地位に就くことを嫌がった。彼は友人のヨハネス・プラテンシス(Johannes Pratensis)に「私は我らが慈悲深き国王陛下が寛大にも勧めて下さったいかなる城の主の地位も望んでいなかった。私はこの地の社会、慣習のあり方、その他のデタラメが気に入らない。」と書き送っている。ティコは密かにバーゼルに移住する計画を開始した。彼はそこで急速に進化する学問に参入し、科学に没頭する生活を送ることを望んでいた。だが、フレゼリク2世はティコの計画を聞きつけると、著名な科学者を手放したくないという欲求に駆られ、ティコにユーラソン海峡のヴェン島と、天文台の建設資金の提供を提案した。 ヴェン島はそれまで直轄王領地であり、島内には自らを自由自営農(freeholding farmers)と考える50家族が居住していたが、ティコ・ブラーエがヴェン島の封建領主に任命されるとともにこの状況は変わった。ティコは農業計画を支配し、従来の2倍の耕作を農民たちに要求した。また彼は新しい居城を建設するために厳しい賦役労働を農民たちに課した。農民たちはティコ・ブラーエによる過酷な徴税に不平を言い、彼を法廷に立たせた。法廷はティコが徴税と賦役を課す権利を確立し、島の領主と農民の間の相互義務の詳細を定めた。 ティコ・ブラーエはウラニボリの彼の城を軍事的な要塞ではなく、芸術と科学の神々ミューズに捧げる神殿にすることを構想した。それ故に、その城は後に天文学のミューズであるウラニアにちなんで命名された。建設は1576年に(彼の錬金術実験のための地下研究室と共に)始まった。ウラニボリはヴェネツィア人建築家アンドレーア・パッラーディオに影響を受け、北欧でイタリア・ルネサンス建築の影響が見られる最初の建造物の1つとなった。ティコはウラニボリの塔は計測器具が風雨に曝露し、また建物が動くため、天文台として十分な機能を持っていないことに気づき、2つ目の地下天文台を1581年にスターニボリに建設した。この地下室には蒸留や化学実験を行うための16器の窯を備えた錬金術研究所が付随していた。この時代では珍しいことに、ティコがウラニボリに設置した研究センターではおよそ100人の学生と職人がおり、1576年から1597年まで働いた。ウラニボリはまた、スカンディナヴィアで最初期に属する印刷所と製紙工場もあり、これによってティコは自分の透かしを入れた現地生産の紙で研究成果を出版することができた。彼は製紙工場のホイールを回すための貯水池と運河のシステムを構築した。長年にわたってティコはウラニボリで研究を続け、数多くの学生や弟子(protegés)から補佐を得た。彼らの多くが天文学への道を歩んだ。その中には後にティコ体系の主たる支持者となり、ティコの代理としてデンマークの王室天文学者となるクリスチャン・ソレンセン・ロンゴモンタヌスや、ピーザ・フレムルーセ(英語版)、イリーアス・オールスン・モースィング(英語版)、そしてコート・アスラクスン(英語版)がいた。ティコの観測器具製造業者ハンス・クロール(英語版)もまた、この島の科学コミュニティの一員となった。 彼は1577年11月から1578年1月にかけて北の空に見えた大彗星(英語版)を観測した。ルター派の間では彗星のような天体は黙示録的な終末を伝える強力な予兆であると一般に信じられており、ティコによる観測以外にも幾人ものデンマーク人アマチュア天文学者がこの彗星の観測を行って、差し迫った運命の預言を出版した。ティコは地球からこの彗星までの距離が地球から月までの距離よりも遥かに遠く、その彗星の起源が地球圏(earthly sphere)ではありえないことを突き止め、月以遠の天の不変という命題に対して彼が以前から持っていた反アリストテレス的な結論が正しいことを確認している。彼はまたこの彗星の尾が常に太陽と反対側に伸びていることを確認した。彼は彗星の直径、質量、そして尾の長さを計算し、それを構成している物質を推測した。この時点で、彼はコペルニクスの理論を破棄してはいなかったが、この彗星の観測はコペルニクスモデルに代わる、不動の地球を想定した新たな理論を確立する意欲を彼に掻き立てさせた。この彗星についての彼の原稿の後半部は占星術的、および黙示録的な面を扱っており、彼の競争者たちが出していた予言を退け、それに代わる彼自身の、近未来の悲惨な政治的事件発生の予言を行った。彼の預言にはモスクワにおける流血と、イヴァン雷帝が崩御が差し迫っており、それは1583年までに起きるというものがあった。 ティコはデンマーク王室から多大な支援を受けており、それは1580年代における年間歳入の1パーセント程度に相当する規模であった。ティコはしばしば城で大規模な懇親会(social gatherings)を開催した。数学者ピエール・ガッサンディは、ティコはまたヘラジカ(elk)を飼っており、ティコの教師(menter)であったヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世(英語版)はティコにシカよりも早い動物がいるかどうか尋ねたと書き記している。ティコは、それはいないと返したが、彼は飼育していたヘラジカを送ることができた。ヴィルヘルム4世はウマと交換でヘラジカを受け取ると答えたが、ティコはヘラジカがランズクルーナの貴族を楽しませるためにそこを訪問している最中に死亡したという悲しい報せで答えた。そのヘラジカはディナーの最中、大量のビールを飲んだ後に階段から転落死したと思われる。ヴェン島を訪れた多くの貴族たちの中には、デンマーク王女アンと結婚したイングランド王ジェームズ1世(スコットランド王としては6世)がいた。彼は1590年にヴェン島を訪れた後、ティコ・ブラーエとアポローン及びパエトーンを比較した詩を書いた。 王に邸宅を下賜されたことの対価である義務の一部として、ティコは王室の占星術師としての役割を果たした。毎年、年初に宮廷に暦(Almanac)を提出し、その年の政治と経済に星々が及ぼす影響を予測する義務を負った。また王子たちが生まれた時には、彼らのためのホロスコープを用意し、彼らの運命を占った。彼はまた、かつての教師(tutor)であった地図作成者(cartographer)アナス・サアアンスン・ヴィーゼル(Anders Sørensen Vedel)と共に、デンマークの全領土を地図化するための旅行を行った 。王の親族であり、王妃ソフィー(ティコの母ビエーデ・ビレと義母インガー・オクセはともにゾフィーの宮廷のメイドをしていたことがあった)と親しかったため、ティコはヴェン島とウラニボリが彼の相続者の手に渡るという約束を取り付けた。
※この「ヴェン島の領主として」の解説は、「ティコ・ブラーエ」の解説の一部です。
「ヴェン島の領主として」を含む「ティコ・ブラーエ」の記事については、「ティコ・ブラーエ」の概要を参照ください。
- ヴェン島の領主としてのページへのリンク