ロングエーカーとの諍い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/12 16:15 UTC 版)
「フランクリン・ピール」の記事における「ロングエーカーとの諍い」の解説
1844年、彫り師のゴブレヒトが死に、後任はジェイムズ・B・ロングエーカーとなった。この新しい彫り師は、サウスカロライナ州選出アメリカ合衆国上院議員ジョン・カルフーンの影響力を通じて、指名を得ていた。フィラデルフィア造幣所のパターソン家やエックフェルト家のような影響力ある家系とは関係が無く、南部人のカルフーンとの関係が、ピール、パターソン、その他関係者にとっては不愉快なものだった。かれらはゴブレヒトの後任は居ない方が良く、ニューヨーク州の彫り師チャールズ・クッシング・ホワイトなど、既に知り合いで信用の置ける者と、必要に応じて接触する方が良かった。このことで、ピールの利益の高いメダル事業が脅威を受けないことが保証された。さらに、ロングエーカーはその指名以前に貨幣やメダルのデザインに訓練を受けておらず、成功した板の彫り師だった。ランゲは、造幣局役人は「はっきりと」ロングエーカーに対する偏見を持ったと述べている。 ピールは時として政府用のメダルを作ることがあり、その過程でロングエーカーを外すように気をつけていた。米墨戦争のとき、連邦議会は、パロ・アルトの戦いとレサカ・デ・ラ・パルマの戦いでのザカリー・テイラー少将の勝利を祝す金メダル制作を票決した。ピールはウィリアム・カール・ブラウンが制作した肖像画とジョン・T・パットンによるモデルからメダルのデザインを彫った。テイラーが大統領になった後は、そのインディアン和平メダルをデザインした。またジョン・タイラー、ジェームズ・ポーク各大統領のためにもインディアン和平メダルを、別の者のデザインやモデルから制作した。1846年、海岸調査メダル(ジョージ・M・バチェのメダルとも呼ばれた)をデザインし彫った。ピールは連邦議会が承認する国家的記念メダルは全て、その型をフィラデルフィア造幣所に留め置き、そこで打たれ、パターソンの支持で、ジョン・アダムズやウィリアム・ハリソンのようにインディアン和平メダルがデザインされていない大統領のためにメダルの発行が促されるものと考えていた。これはその通りだったが、ピールの時代に限られず、例えばウィリアム・ハリソンのメダルは後に彫り師助手かつ主任となったジョージ・T・モーガンによってデザインされた。これらの作品はピールのインディアン和平メダルと同様に、造幣局の大統領シリーズの一部となり、現在まで続いている。 ピールの改良で型を機械的に再生産できるようになっており、造幣局の彫り師は定型業務の大半から解放されていた。新しいデザインや通貨の発行が無ければ、ロングエーカーは型に日付を加えること以外ほとんどやることが無かった。これら挿入の幾らかはミスをすることもあり、R・W・ジュリアンのような現代の貨幣学者は、ピールやその下で働いた者たちは時として型に日付を挿入することがあり、ロングエーカーを陥れるために意図的に誤りを犯しはしなかったか、疑問に思っている。それでもロングエーカーのフィラデルフィア造幣所における最初の数年間は、ピールとの一連の諍いもなく過ぎた。この状況が1849年に一変した。連邦議会が金貨(1ドル)とダブルイーグル貨(20ドル)の発行を承認した。このことで、ロングエーカーが新しいデザインと型を作る責任があったので、造幣所の関心の的となった。それがピールとの直接の摩擦になった。彫り師はコンタミン旋盤を使う必要があり、それはピールのメダル事業に必要なものだった。ピールはロングエーカーを解任させる目的でその試みを妨害しようと考え、政府の外に発注される作業は、メダル事業を邪魔されずに継続させることになると考えた。この件ではピールは支配人のパターソンから支持を得ていた。 ロングエーカーが2つの新しい貨幣を完成するために働くと、ピールからの干渉をどうにかする必要があった。1849年初期、翌年にロングエーカーが書いた手紙に拠れば、彫り師に造幣所スタッフからアプローチがあり、別の役人(すなわちピール)が彫りの作業を造幣所外でやらそうとしており、ロングエーカーの仕事を無用にしようとしていると警告した。ロングエーカーのこの情報に対する反応は、1849年3月の大半を使って金貨の型を準備することであり、後に自身が語っていたようにその健康にも影響した。ロングエーカーは1849年後半を通してダブルイーグルの作業に進み、ピールによってその道に設定された障害のことを次のように語っていた。 私のために選ばれた操作の計画は、私のモデルから作られた「電気版モールド」を銅で持つことであり、鉄で鋳られたパターンで機能するものだった。この目的のためにガルバニ電池の操作は貨幣鋳造主任の部屋で行われた。ガルバニ電池の操作が失敗し、私のモデルはその操作で壊された。しかし、私は石膏で鋳型を作るという注意を払っていた…唯一の代替物としてのこの鋳型から、金属製の型を作り出したが、完全ではなかった。しかし型の彫り面にある不完全さを矯正することはできるはずだと考えた。それは負荷のある仕事だが、時間をかければ完成するし、すべて私の手でやることができた。型は鋳造部で硬化させる必要があり、不幸にも工程が分かれていた。 貨幣学歴史家ドン・タクセイに拠れば、「そのような状況下で、ピールが通常造幣所で採用されない工法を採用したことは、その壊滅的な失敗と共に偶発以上のものに見える」と記している。ロングエーカーがダブルイーグルの型を完成させたとき、それはピールによって拒否された。ピールはそのデザインがあまりに深く彫られており、貨幣に打ち込むことができない、貨幣を適切に積み上げることができないと述べた。しかし、タクセイは、1849年のダブルイーグルで残っているものにそのような問題は見られないと述べ、外観からも積み上げられるレベルにあるとしている。ピールはパターソンに苦情を言い、パターソンは財務長官のウィリアム・メレディスに1849年12月25日付けの手紙を書き、適切な型を作れないという根拠でロングエーカーの解任を要求した。メレディスは明らかにロングエーカーを首にするつもりだったが、ロングエーカーがワシントンに来て、自ら会見した後は思いとどまった。 1849年から3セント銀貨の要求があり、フィラデルフィア造幣所でパターン・コインが打たれた。ロングエーカーのデザインは、片面に六星の中に盾を描いていた。ピールが競合するデザインを提案した。それは自由の帽子をあしらっており、1ドル金貨が提案された1836年にゴブレヒトが作ったものによく似ていた。パターソンはピールのデザインを好んだが、ロングエーカーのものは浅浮き彫りで容易に打ち出すことができたので、判断を躊躇し、財務長官のトマス・コーウィンがロングエーカーの作品を承認した。この3セント銀貨は1851年から流通した。 1850年、造幣局がカリフォルニア・ゴールドラッシュのために金保管量の莫大な増加に直面したので、ピールは造幣局で女性を雇用してスタッフを補い、金硬貨地板の重さを量り、調整する役につけるという提案をした。その仕事は「完全にその能力に見合ったもの」と表現していた 。造幣局は実際に40人の女性を雇用し、1日10時間の労働に1.10ドル(1860年時点)払ったが、その額は当時としては良い方だった。造幣局が女性を雇用したことは、アメリカ合衆国政府が定期給与ベースで特定の職を満たす女性を雇用した最初の機会となった。 1851年、ピールはフィラデルフィア造幣所のために新しい蒸気機関を設計し、外部に配管のない「尖塔型」デザインとした。100馬力の出力でデザインされたが、間もなく摩耗で能力が落ちた。アメリカの工業雑誌はピールの最新の作品にコメントなしで紹介した。イギリスの雑誌はその欠点を指摘し、ピールの時代が過ぎたことを示唆した。
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