ホンダの復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 08:31 UTC 版)
「ロードレース世界選手権の歴史」の記事における「ホンダの復帰」の解説
4ストロークエンジンのNR500で復帰 ホンダは1959年のイギリスGP(マン島TT)からロードレース世界選手権(WGP)に参戦し、1967年シーズンまで活動、1968年以降はWGPから離れていたが、1979年に復帰した。 ホンダは500ccクラスに復帰したが、楕円ピストンの4ストロークV型4気筒エンジンを搭載したNR500での復帰だった。2ストロークエンジンを搭載したマシン(ヤマハYZR500、スズキRG500)に打ち勝つために多額の費用をかけて開発した楕円ピストンを採用した4ストローク・マシンであったが、予選を通らないこともあるほどで、1979年から1981年の3シーズンの間に1ポイントも獲得することができず、NR500は大失敗に終わった。しかしこのことはホンダの技術力の欠如を意味しているわけではない。ホンダは1960年代にも4ストローク4気筒エンジン(真円ピストン)で500ccクラスを戦ったが、エンジンは高出力であったが、その出力にシャーシーの性能が見合わず、マイク・ヘイルウッドはホンダの4気筒500ccマシンを激しく非難していた。 「片山敬済#WGP(NR500)」も参照 2ストロークエンジンのNS500へ移行 ホンダは渋々型の古いモトクロス用エンジンを元に設計した2ストロークV型3気筒エンジンを搭載したNS500で1982年のレースを戦うという現実的な選択をした。そして翌1983年にはフレディ・スペンサーに託されたこの3気筒マシンはケニー・ロバーツが駆るV型4気筒エンジンのヤマハYZR500に打ち勝ち、世界チャンピオン・マシンとなった。 燃料タンクとチャンバーの位置が逆転したV型4気筒エンジンのNSR500の登場 NSR500 (1984年型) ホンダという会社は技術者の発言力が大きいという社風を持っている。そのためホンダの技術者はライダーの直感よりもダイナモメーター(動力計)が指し示す数値を重視してマシンを設計する。そのような背景のもとで作り出された1984年型NSR500(NV0A)は今までのマシンとはまったく異なる部品レイアウトを持ち、エンジンの上部にチャンバーを、エンジンの下部に燃料タンクを配置していた。そして、ホイールにはカーボンファイバー製のスポークを採用していた(→図)。 このV4マシンNSR500(NV0A)は大きな問題を抱えていた。1984年シーズン第1戦南アフリカGP(キャラミ)での練習走行中にカーボンファイバー製のスポークが折れてしまい、V4マシンはクラッシュし、フレディ・スペンサーは足首を骨折した。また、高速で直線などを走行する場合、ライダーは空気抵抗を減らすためと風圧によるライダー自身の疲労を避けるために、上半身を伏せてカウル内に身体が入るような姿勢をとるが、このV4マシンでは通常のマシンならば燃料タンクがある位置に走行中に高温になるチャンバーがあるため、ダミータンクカバーを介してライダーの胸は焼かれるような熱さに見舞われた。低中速コーナーでは、コーナリング中にライダーがハングオフの姿勢をとると外側の腕がダミータンクカバーに接触するため、レーシングスーツの袖のファスナー部分は高温になり、スペンサーの腕はいつも火傷していた。また、このV4マシンは燃料タンクがエンジン下部にあるので、満タン状態でスタートしたレース序盤とガソリンが消費されて燃料タンクが空に近い状態になったレース終盤とではマシンの重心が異なるため、ハンドリングがまったく異なるマシンに豹変してしまい、安定したコーナリングができなかった。スペンサーはシーズン途中から型の古い3気筒のNS500でレースを走るようになったが、このV4でも2勝している。しかしHRCの技術者は当時を振り返って「そこそこ走るが、このエンジンはスカだと言われた」と語る。 普通のマシンと同じ配置にした燃料タンクとチャンバーを持つNSR500へ移行 1985年型のNSR500(NV0B)からは普通のマシンと同様にエンジン上部に燃料タンクを、下部にチャンバーを配置するレイアウトになり、1985年にフレディ・スペンサーが、1987年にワイン・ガードナーが500ccクラスの世界チャンピオンになる。 革命的な位置にスイングアーム・ピボットを持つNSR500の登場 しかし1988年型のNSR500(NV0G)では、HRCのシャーシー担当技術者は革命的な位置にスイングアーム・ピボットを配置するように設計した。その目的は、加速時に持ち上がる前輪に対応するように後輪を持ち上げて、相対的に前輪の持ち上がりを抑えることであったが、このNSR500(NV0G)に乗るワイン・ガードナーはクラッシュの連続で、それはHRCの技術者がスイングアーム・ピボット位置を設計し直すまで続き、NSR500(NV0G)は1988年シーズンの世界チャンピオン・マシンにはなれなかった。1989年はNSR500(NV0H)をエディ・ローソンが駆り、500ccクラスの世界チャンピオンになる。 燃料噴射装置装備のNSR500の登場 1993年になるとHRCの技術者は燃料噴射装置を装備したNSR500を開発した。ミック・ドゥーハンにこのNSR500が与えられたが、ドゥーハンは母国で開催されたオーストラリアGP(イースタン・クリーク)で完走できなかった。ドゥーハンはその後キャブレター装備のNSR500を駆って1993年シーズンを戦うが、伊藤真一は燃料噴射装置のNSR500で戦うことを余儀なくされた。なぜなら、伊藤はワークスライダーであるが、開発ライダーでもあるから。伊藤はこのNSR500でドイツGP(ホッケンハイム)を走り、時速200マイル(約320km/h)という画期的なスピード記録を出した。 NSR500の大きな設計変更を望まなかったミック・ドゥーハン ホンダは昔からエンジンの高出力化とトップスピードを最優先してマシンを設計する傾向が強く、そのためにマシンの操縦安定性が損われてしまい、ライダーが苦労することがしばしばあった。ミック・ドゥーハンはNSR500を駆って500ccクラスのタイトルを1994年から1998年まで5年連続して獲得したが、ドゥーハンはHRCの技術者がNSR500の設計を大変更することを望んでいなかったらしく、ドゥーハンが走らせていたNSR500は1992年型NSR500に小変更を加えたマシンであった。ドゥーハンは1999年第3戦スペインGP(ヘレス)での練習走行中に転倒して負傷し、GPライダーを引退した。1999年シーズンは、アレックス・クリビーレがドゥーハンが開発に携わったNSR500を駆って500ccクラスの世界チャンピオンになった。 ミック・ドゥーハン引退後はHRC技術者の主導でNSR500を開発 ミック・ドゥーハン引退後に開発された2000年型NSR500は、以前のようにHRCの技術者はダイナモメーター(動力計)が示す値に基づいてエンジンを設計し、より高出力なV4エンジンを開発した。2000年シーズン第1戦南アフリカGP(パキサ)では、ディフェンディング・チャンピオン アレックス・クリビーレには2000年型NSR500が与えられたが、1999年型V4エンジンを搭載したNSR500を駆るロリス・カピロッシの方が予選タイムは早く、また決勝レースでもカピロッシは3位で表彰台に上がり、クリビーレは5位だった。第4戦スペインGP(ヘレス)ではHRCの契約ライダーであるクリビーレと岡田忠之、セテ・ジベルナウは1999年型NSR500か、あるいは1999年型の部品を組み込んだV4エンジンを搭載したマシンで走った。2000年シーズンのHRC契約ライダーの成績は、クリビーレがランキング9位、岡田が11位、ジベルナウが15位だった。ホンダのライダーで一番良い結果を出したライダーは2000年シーズンから500ccクラスに参戦した1999年シーズンの250ccクラス世界チャンピオン バレンティーノ・ロッシで、ランキング2位であった。 通算500勝、最高峰クラス200勝達成 ホンダのレースの歴史を振り返れば、技術革新を試みて自らを窮地に陥いれ、その後は現実的な技術を選択して勝利を獲得してきた。ホンダはレースに対して決断力と熱意、そして他のメーカーに比較してより潤沢な資金力を持っている。ホンダはロードレース世界選手権(WGP)において、1961年125ccクラス第1戦スペインGP(モンジュイック)で初勝利をあげ、2001年500ccクラス第1戦日本GP(鈴鹿)で通算500勝を達成した。WGPの最高峰クラスでは、1966年500ccクラス第1戦西ドイツGP(ホッケンハイム)で初優勝し、500ccクラスがMotoGPクラスに移行して5シーズン目の2006年第8戦オランダGP/ダッチTT(アッセン)で200勝を達成した。
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