アメリカ人ライダーの躍進 (1978年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:16 UTC 版)
「ロードレース世界選手権の沿革」の記事における「アメリカ人ライダーの躍進 (1978年)」の解説
1978年 - ケニーロバーツ 500ccクラス初参戦で世界チャンピオン獲得 500ccクラスでは、アメリカ人ライダー ケニー・ロバーツがヤマハYZR500をハングオフという乗り方で操り、500ccクラス初参戦で世界チャンピオンになる。 1979年 - ホンダがWGPに復帰 ホンダがNR500(4ストローク)でイギリスGP(シルバーストーン)からWGPに復帰。詳細は「ホンダ・NR#NR500」を参照 「ロードレース世界選手権の歴史#ホンダの復帰」も参照 1980年 - ケニー・ロバーツ 500ccクラス3年連続チャンピオン獲得、ケニー・ロバーツ ワールドシリーズ構想を発表 ケニー・ロバーツが500ccクラスで3年連続チャンピオンとなった。 また、ロバーツが中心となり「ワールドシリーズ」構想を発表した。FIMが主催するロードレース世界選手権がアマチュア的なレースになっているため、プロのレースを開催することを目的としていた。この構想は、ワールド・スポーツ・マネジメント社を設立し、FIMとは別の世界選手権を開催するもので、バリー・シーン(1976年、1977年500ccクラス世界チャンピオン)や片山敬済(1977年350ccクラス世界チャンピオン)、フランコ・ウンチーニ(1982年500ccクラス世界チャンピオン)、マルコ・ルッキネリ(1981年500ccクラス世界チャンピオン)、ランディ・マモラ(1980年、1981年、1984年500ccクラス、ランキング2位)など、当時のトップライダーたち全員が支持した。 ワールドシリーズ構想の内容は、F-1クラス(500cc)とF-2クラス(250cc)の2クラスにして自主運営し、マネジメントはワールド・スポーツ・マネジメント社が担当する、というものであった。この構想は失敗したが、その原因はライダーたちのWGP全般に関する認識不足にあった。彼らはWGPの現状に対する不満を表明してこの構想を発表したが、彼らはレースの開催という興業には素人であったこと、この構想を実現するためのに行動する人材を得られなかったこと、WGPの現状の運営実態を完全に把握していなかったこと、これらがこの構想の失敗の原因である。 ワールドシリーズ構想は実現に至らなかったが、FIMがライダーたちに歩み寄り、賞金とスターティングマネー(出場料)の増額で落ち着いた。 1981年 - フレディ・スペンサー NR500でイギリスGPに出場 マルコ・ルッキネリ(スズキ)が500ccクラス世界チャンピオンになる。1975年ジャコモ・アゴスチーニ以来のイタリア人チャンピオンである。 第11戦イギリスGP(シルバーストーン)において、19歳のフレディ・スペンサーが500ccクラスでホンダNR500を走らせることになる。イギリスGPには片山敬済がNR500で出場する予定で、片山はイギリスGPに向けてNR500を仕上げている最中、完成間近になって河島喜好(社長)に呼ばれて次のように言われた。「(省略)。こちらとしては、アメリカホンダと契約しているフレディ・スペンサーに、その新しいマシンを乗せてみたいんだが、どうだろう」(河島喜好) 片山もアメリカに非常に速いライダーがいることは耳にしていたので、スペンサーにNR500を譲ることにした。この時のNR500のエンジンは24,000rpmまで回すことができるのだが、ここまで回すとエンジンに耐久性がないため壊れてしまい、決勝レースの周回数の半分ももたない。そのため片山はエンジンの回転を22,000rpmに抑えて耐久性を確保するように努力していたが、それでも完走することができないエンジンであった。ところがイギリスGPでNR500を走らせたスペンサーはタコメーターを見ないで走っていた。エンジンを回せるだけ回して加速しなくなったらシフトアップする、という今までの常識では考えられない走り方をしていた。このようなエンジンの使い方をするためによく壊れたが、とにかくスペンサーは速かった。 1982年 - フランスGPボイコット、スズキ 7年連続メーカー選手権獲得、ヤマハ オーリンズと業務提携 500ccクラス ワークスライダー、フランスGPボイコット 500ccクラスではライダーとレース主催者との間で一波乱あった。第3戦フランスGP(ノガロ)が、ほとんどのワークスライダーにボイコットされたのだ。その理由は、ノガロの路面状態が悪く安全上問題があり、またパドックの状態も悪いためである。ノガロで優勝したライダーはサンベネロを駆るフルチ(Michel Frutschi)で、1982年のランキングが14位のライダーである。 500ccクラスはフィンランドGP(イマトラ)とチェコスロバキアGP(ブルノ)でのレース開催はなかった。イマトラは踏切がある公道サーキットで悪評が高く、危険な場所の例としてあげられていた。そのため、高速で走行する500ccクラスはプログラムから外された。ライダーから好まれないコースであった。ブルノも当時は公道サーキットだったので、500ccクラスのレースでは危険度が大きいために数年前から開催されていなかった。 スズキ 7年連続メーカー選手権獲得フランコ・ウンチーニ(→写真、スズキ)が500ccクラス世界チャンピオンになる。マルコ・ルッキネリに続いてイタリア人ライダーとスズキのマシンが2シーズンを制し、スズキは500ccクラスで7年連続でメーカー選手権を獲得する。 ヤマハがサスペンションメーカー オーリンズと業務提携を結ぶ。 1983年 - フレディ・スペンサーとケニー・ロバーツの死闘 今シーズンの500ccクラスはWGPの歴史上で最も注目されるシーズンの一つ。フレディ・スペンサーとケニー・ロバーツが死闘の末、スペンサーが500ccの世界チャンピオンになる。ロバーツは今シーズンを最後にGPライダーを引退。詳細は「フレディ・スペンサー#世界グランプリ・フル参戦」および「ケニー・ロバーツ#ライダーとして」を参照 1984年 - 1985年 - フレディ・スペンサー 500ccクラスと250ccクラスのタイトル獲得 フレディ・スペンサーが500ccクラス(ホンダNSR500)と250ccクラス(ホンダRS250R-W)にダブルエントリーし、二つのクラスで世界チャンピオンになる。 1986年 - 1987年 - 20年ぶりに日本GP開催、スタート方式がクラッチスタートに、FIMがTV放映権の入札を検討中 日本で20年ぶりにロードレース世界選手権(WGP)が第1戦日本GPとして鈴鹿サーキットで開催される。前回の日本GPは1967年の富士スピードウェイ。 今シーズンからスタート方式がクラッチスタートになる。 FIMがWGPのテレビ放映権などの商業的権利をIRTAとROPA、そして、バーニー・エクレストンに入札で譲渡することを検討中。 1988年 - 1989年 - 1990年 - 1991年 - バーニー・エクレストンがWGPの全商業的権利を獲得 バーニー・エクレストン(TWP)がWGPのすべての商業的権利を獲得し、ドルナはエクレストンとテレビ放映権のリース契約を結び、ドルナがテレビ放映権を管理することになった。
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