ドニエプル空挺作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:25 UTC 版)
「ドニエプル川の戦い」の記事における「ドニエプル空挺作戦」の解説
(下記の大部分はソビエト赤軍最高司令部情報の参照を受けたDavid M. Glantzによる記述の概要である。) ソビエト赤軍最高司令部はドニエプルにおいて焦土戦術中のドイツ軍から小麦などの作物を手に入れ、ドイツ軍が防衛線を安定させる前に戦略運用上重要な橋頭堡を擁立するために、戦線中央部のヴォロネジ方面軍第3戦車軍を分離、弱体化しつつあるドイツ軍と競争させた。第3戦車軍は軽率に突進、9月21日から22日にかけての夜、渡河、23日にソビエト赤軍歩兵部隊は小規模で脆弱な橋頭堡を確保するために間に合わせのいかだ(一部は泳ぎ)で川を渡ったが、反撃はドイツチェルカッシー学校(Cherkassy flak academy NCO)下士官学校下士官候補生らと第19装甲師団の偵察大隊が行ったのみであった。(これらはドニエプル環状防衛線60Km内で唯一のドイツ軍であった。)にも関わらずドイツ軍による重爆撃と架橋器材の不足により、ソビエト赤軍は大型兵器を渡すことができず、橋頭堡が拡大できなかった。 ドイツ軍が反撃を行う前に、ソビエト赤軍最高司令部は重大な転機を感じており、橋頭堡を拡大するために空挺部隊による急襲攻撃を命令した。21日、ヴォロネジ方面軍の第1、第3、第5親衛空挺旅団は緊急命令を受け、23日、ヴォロネジ方面軍の部隊が川へ進撃する間、15Kmから20Kmの橋頭堡周辺およびカネフ(Kanev)、Rzhishchevの間でドニエプル環状防衛線の深さ30kmの接続を確保することとなった。 飛行場への人員の到着が遅れたため、23日、計画の一日延期と第1旅団を計画からはずすことが必要となった。それに伴う任務変更は、命令系統に混乱に近い状況を引き起こした。最終任務変更命令が中隊長に下されたのは24日、彼らの部隊所属将兵、1830名が離陸のために飛行場に集められる15分前であり、対戦車地雷、シャベル、秋の夜露を凌ぐためのポンチョ等の装備は支給されていなかった。天候の影響のため、割り当てられた航空機が時間内に飛行場に到着するとは限らなかった上に大部分の飛行安全を司る将校は、それらの航空機に最大積載量の荷物を積むことを認めなかった。予想より少ない航空機(積載量)しか使用できず、主計画は断念された。多くの無線機などの軍需品が取り残されることとなり、次善策として2個旅団を運ぶために3機の輸送機を使用、部隊(過度に酷使された鉄道により未だ輸送中であった)の少数が戻ってきた輸送機に小出しに載せられるが、これらは燃料トラックのより低い能力のため、燃料補給が遅れていた。大部分の航空機は人員を載せて燃料補給を受け、降下地点を捜すために横列ではなく縦列になって飛行した。 軍団所属部隊から編成された5つのフィールドの内4つ(1つのフィールドは燃料を全く受け取れなかった)が170Kmから220kmの飛行を行うとともに部隊は(その半分は訓練塔からの降下訓練を行なっていなかった)降下地点、集合地点などを新たな命令を受け取ったばかりでまだ理解しきっていない小隊長らからの説明を受けた。その間、ソビエト空軍の偵察機は天候によって数日間動けず、その日の午後早く、そのエリアでかなり強化されたことを知らせる偵察写真を撮ることができなかった。霧雨の中、第3旅団を輸送する輸送機のパイロットは川の警戒隊を越えた向こう側での自軍の抵抗を期待できず、その代わりにドイツ第19装甲師団(偶然にも21日、降下地点をドイツ軍の6個師団と他の部隊がソビエト第3戦車軍の戦線においての隙間を埋めるよう命令を受けて通過中であった)から対空砲と照明弾の砲撃を受けた。導かれた輸送機は1930名をDubariで空挺部隊を降下させたが、ドイツ第73装甲擲弾兵連隊の兵員輸送大隊(工兵)と第19装甲師団の師団本部要員から小銃、機関銃、2cm Flakvierling38の対空砲火を受けた。一部の空挺部隊は、着陸の前にもかかわらず手榴弾を放り投げ始める等応戦していたが、輸送機は回避行動として上昇した為、空挺部隊は広範囲に散らばって降下することとなった。夜間、一部のパイロットは照明弾で照らされた降下地点を避けた、そして13機の輸送機が全ての空挺兵を降下させることなく、飛行場に戻った。主に防衛向きではない地形上、10×14Kmの範囲に降下を意味していたが、その代わりにドイツ軍の最速の機動部隊上に30×90Kmの範囲での降下を成し遂げた。 地上において、ドイツ軍は指令系統の確立していない降下部隊を殲滅するため、そして彼らを集めて降下物資を破壊するために白いパラシュートを目印に使用した。篝火が燃やされ、強烈な残り火、多色な照明弾は奇妙で恐ろしい戦場を照らし出した。奪われた書類は指揮系統の混乱した降下部隊が降下する前にドイツ軍がソビエト赤軍の目的について知る十分な知識を与えた。 輸送機は飛行場に戻ったが、燃料不足のため、軍団所属の45mm対戦車砲および、2,017名の空挺兵を運ぶことができず、500回の計画のうち298回だけしか行えなかった。降下した4,575名(計画の約70%、その内1,575名が第5旅団)の内、約2,300名が第43特別集団に集合、絶望的な中、使命を捨ててまだドイツ軍によって破壊されていない補給品を捜すことにそのほとんどの時間を費やした。その他の将兵はこの地域で活動している9つのパルチザングループと合流した。約230名がドニエプル川を渡り(あるいはその外から)、方面軍部隊の元(あるいは当初からそこに降下)へ移動した。大部分がほとんどが捕虜となるか、その翌日または初日に(Grushevo(Dubariの約3kmの西)近辺でドイツ軍が空挺兵150名を殲滅している間、ドイツ第III軍団の第73装甲擲弾兵連隊(大損害を受けていた)に殲滅された。 ドイツ軍は1,500から2,000名を殲滅、もしくは捕虜と見積もっており、最初の24時間で降下部隊のうち、捕虜となるか戦死したものは901名と記録されている。駐屯部隊、及び鉄道路線、縦列部隊により機会を得た小規模な活動は11月初旬を通じて残余部隊に対して行われたが、ドイツ軍による空挺兵狩りは26日、2,100名を殲滅したことにより終了したと考えられていたが、全ての地域を掃討するには人員が足りず、その地域の森には小規模な脅威が生じたままにされた。 ドイツ軍はこの作戦を腕のいい狙撃兵を欠く、計画立案者の道楽により滅ぼされることとなった基本的に健全な発案と呼んだ。(ただ赤軍空挺兵に対しては粘り強さ、銃剣の熟練さ、およびまだらに樹木が茂った北方地区のうち破壊された地域の巧みに利用したため、彼らを賞賛していた)ソビエト赤軍最高司令部はこの2回目の部隊降下は完全な失敗になると考えていた。彼らはヴャジマで経験した冬の降下作戦から学んでいるはずであった教訓を思い出すことなく、二度と同じことを試すことはなかった。 ソビエト第5親衛空挺旅団旅団長Sidorchukは、南で森に篭り、結局、チェルカースィ近辺のドニエプル川上で半分が空挺兵、半分がパルチザンの旅団規模の部隊を集め、航空機による物資投下を受けた上で、11月15日、最終的に第2ウクライナ方面軍の部隊と合流することができた。
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