ターレス、ピュロスに支援を依頼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 22:02 UTC 版)
「ピュロス戦争」の記事における「ターレス、ピュロスに支援を依頼」の解説
ハリカルナッソスのディオニュシオスは、ターレスがピュロスの支援を求めることを決定し、それに反対する人々を追放したと書いている。これに先立ち、メトンという一人のターレス市民が、自由でくつろいだターレスの生活様式を象徴するために酔ったふりをして、ピュロスの軍を都市に駐屯させると自由と民主主義に悪影響をもたらすことを警告した。人々はしばらくは彼の言うことを聞いていたが、やがて会議が開催されていた劇場から追い出された。カッシウス・ディオもまた、メトンがローマとの戦争を行わないようにターレス市民の説得を試みたが失敗したこと、その際に彼がピュロスの下では自由が失われると主張したことに触れている。プルタルコスは、メトンの演説は「多くのターレス市民に感銘を与え、議場は大拍手となった」と書いている。しかし、これに反対する人々は、戦わなければ酔っ払いの恥知らずの提言にしたがってローマに降伏することになると考え、メトンを追い出した。その後、ターレスおよび他のマグナ・グラエキアのギリシア都市から、ピュロスに使節を派遣することが可決された。このとき、ピュロスがイタリアに上陸したならば、ターレス、メッサッピア(en)、ルカニア、サムニウムが50,000の歩兵と20,000の騎兵を提供すると約束した。この提案にピュロスは興奮し、イタリア遠征を望んだ。 カッシウス・ディオは「ピュロスは他国がエペイロスとローマの軍事力は拮抗していると見ていたために、自分の軍事力に強い自信をもっていた」と書いている。ピュロスは長年シケリアを欲しており、いかにローマを屈服させるかを考えていたが、彼自身に悪影響がない限り、ローマと戦うつもりはなかった。カッシウス・ディオもプルタルコスも、ピュロスの重臣であったキネアス(en)について記述してる。キネアスはテッサリア出身で、極めて聡明と評されており、デモステネス(アテナイの政治家・弁論家)の弟子であった。ピュロスもまたキネアスを高く評価していた。キネアスはイタリア遠征は愚かであると考えていた。キネアスはピュロスに対して、すでに彼が得たもので満足するように説いたが、ピュロスはこれを聞き入れなかった。 ピュロスはセレウコス朝シリア王アンティオコス1世に遠征資金を、マケドニア王アンティゴノス2世に遠征軍を輸送する艦船を提供してくれるように依頼した。プトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス2世は、2年以上の従軍はさせないとの条件付ではあるが、歩兵5,000と騎兵2,000を提供した。その見返りとして、ピュロスが自身の最良の軍を率いてイタリアに遠征している間、プトレマイオスにエペイロスの防衛を依頼した。 ゾナラスは、ピュロスはイタリアに遠征軍を送る口実となるこの幸運な依頼を受けると、ターレスとの条約の中に「疑念を抱かれないよう必要以上の期間イタリアに留まらない」との条項を入れることに固執した、と述べている。この後、ピュロスはターレス使節の大部分を、軍の準備が整うまで拘束した。但し、何人かの使節は、少数の兵を率いて先行したキネアスに同伴させた。これはローマとの交渉を妨害するためであった。キネアスはアギスが将軍に選ばれた直後にターレスに到着したが、その到着はターレス市民を勇気付け、ローマとの再交渉の試みは中止された。アギスは解任され、使節の一人が司令官に選出された。そのしばらく後、ピュロスは腹心の一人であるミロが、追加兵力を率いて到着した。ミロはアクロポリスに司令部を置き、城壁の防衛を引き継いだ。ターレス市民は、この任務から開放されたことを喜び、兵士たちに食料を提供し、ピュロスに軍資金を送った。プルタルコスは、キネアスが率いてターレスに向かった兵力は3,000であるとしている。 ルキウス・アエミリウスはピュロスの兵士が到着するのを見たが、冬であったためにこれに抵抗することはできなかった。ローマ軍はアプリアへ撤退した。途中の隘路でターレス軍の待ち伏せ攻撃を受けたが、ルキウス・アエミリウスは何人かの捕虜を正面においた。ターレス軍は同胞を傷つけたくなかったため、攻撃を中止した。 ゾナラスは、ピュロスがイタリアへの渡海を春まで待たなかったと書いている。冬の地中海は嵐で荒れるのであるが、ピュロスもまた嵐に遭遇した。多くの兵が失われ、また海上で散りじりになってしまった。ターレスへの上陸も困難であった。プルタルコスは、歩兵20,000、弓兵2,000、投擲兵500、騎兵3,000、戦象20が乗船したとする。嵐に遭遇した船団の中には、イタリアにはたどり着けず、シケリアやアフリカへ流された船もあった。他の海岸に打ち上げられて破壊されたものもあった。ピュロス自身も海岸へたどり着くために海へ飛び込み、メサッピア人に助けられた。いくらかの船は生き残ったが、歩兵2,000と少数の騎兵、戦象2頭のみがイタリアへ到着した。 ピュロスは当初はターレス市民の意思に反するようなことは何もせず、バラバラになってしまった軍が集合するのを持った。それがほとんど完了すると、ターレスへの干渉を始めた。ターレス市民は怠惰な生活に慣れきっており、軍事行動は全てピュロスに任せるつもりであった。ピュロスはギュムナシオンを閉鎖し、祭り、宴会、どんちゃん騒ぎや飲酒を禁止した。反対派が集会に使うことを恐れて、劇場も閉鎖した。ピュロスは圧迫されたと感じた市民がローマと通じるのを恐れた。このため、そのような可能性がある市民を拘束してエペイロスに送り、その何人かを暗殺した。また、ターレス市民に対しては、軍務につくか刑罰を受けるよう命じた。若者は彼の兵と共に軍務につき、二つの部隊に振り分けられた。ゾナラスは、ピュロスが市民の家の前に見張りを置き、市から脱出できないようにしたと書いている。ターレスはピュロスが同盟者ではなく支配者であると感じるようになった。何人かは不平をもって軍から脱走した。プルタルコスは「ターレス市民は命令に従うことになれておらず、これを奴隷状態と呼び、多くの市民がターレスを離れた」と述べている。アッピアノスは軍務放棄の罰則は死刑であり、「ピュロスの士官達は力をもって市民の上に駐屯し、あからさまに彼らの妻や子供を侮辱した。市は外国の支配にあるように思われたため多くの市民が脱走し、郊外に避難した。このためピュロスは城門を閉じ、そこに見張りを置いた」と記載している。 メッシーナ海峡に面するギリシア都市レギオン(ラテン語名レギウム、現在のレッジョ・ディ・カラブリア)は、ローマに守備兵の派遣を依頼した。ローマはカンパニア人の部隊4,000を送り込んだ。当初彼らはこの任務に誇りを持っていたが、ローマがターレスとピュロスに対応するのに忙しくしていたため、この派遣軍の士気は落ち始めていた。副司令官のデキウスの扇動によって、彼らは都市の富を狙うようになった。彼らの行動は、対岸のシケリアのメッセネを支配するマメルティニに触発されたものであった。マメルティニはシュラクサイの僭主アガトクレスが雇用していた傭兵であったが、紀元前289年にアガトクレスが死去すると、メッセネを占領して男を殺し女性を妻としていた。デキウスは、何人かの市民がピュロスに書いた裏切りを申し込む手紙を市民に提示した。また、ピュロスの船団の一部がレギオン近くに停泊しているとの情報を得ていた。これらを口実に、デキウスは街を簒奪した。多くの市民が殺害された。続いてデキウスはマメルティニとの同盟を結んだ。ローマはピュロスに対応するために忙しく、迅速な行動が取れなかった。この事件はあまり重大なこととはみなされず、非難されるに留まった。ピュロスがシケリアに去った後の紀元前278年、執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスがレギオンに派遣された。レギオンは包囲され陥落した。生き残った反乱兵はローマに送られ、鞭打ちの後に処刑された。死体は切り刻まれ、埋葬されなかった。デキウス自身は自決した。
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