シンシナティ・レッズ時代
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「ジョー・アブレイユ」の記事における「シンシナティ・レッズ時代」の解説
1942年、ブルワーズのスプリングトレーニングに参加したときにロサンゼルス・エンゼルス(英語版)に自分が移籍したことを電報で知った。 1週間後、バーミングハム・バロンズへ移籍した。移籍後、メジャーリーグに初めてシンシナティ・レッズで昇格した。メジャー初試合はピッツバーグ・パイレーツとの試合で1942年4月23日だった。 次の出場試合ではレフティー・ウィルキー(英語版)から初本塁打を打つ。レッズでは9試合に出場し、打率.214、1二塁打、1本塁打を残した。
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シンシナティ・レッズ時代
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「ボビー・アダムズ」の記事における「シンシナティ・レッズ時代」の解説
1939年にシンシナティ・レッズへ入団し、ルーキー+級のオグデン・レッズでプレイした。当時はチームでも最年少の17歳だったが、64試合に出場して打率.335と上々の数字を残した。守備では専ら二塁を守り、失策を3個に留めた。翌1940年も同じくオグデンで二塁手としてプレイし、リーグ2位の打率.356を記録した。 1941年は、A級のコロンビア・レッズの二塁手として、137試合に出場した。打率.348はリーグ4位だったが、195本安打はリーグ1位の数字で、46二塁打もリーグ2位という出色の出来だった。 1942年、当時AA級だったシラキュース・チーフス(現在はAAA級)へと階級を上げ、115試合に出場したが、打率.259と苦戦した。また、セカンドの守備でも36失策を記録し、守備率は自己最低の.937だった。 1943年から1945年の3年間は、軍隊に在籍していたため、マイナーリーグ及びMLBではプレイしていない。 1946年4月16日、本拠地クロスリー・フィールドで行われたシカゴ・カブスとの開幕戦で、9回裏に代打で出場し、メジャーデビューを果たした。その後は2番打者や3番打者として二塁のスタメンを任されるようになり、6月2日のブルックリン・ドジャース戦では6回裏にメジャー初本塁打を放った。シーズンでは94試合に出場し、打率.244・4本塁打・24打点・16盗塁だった。 1947年は、4月の全試合に2番・セカンドで先発出場し、月間打率.305と好調なスタートを切った。その後、6月・7月はスタメンを外れる機会が増え、2か月で僅か11試合出場・3安打に終わるなど低迷したが、8月以降は36試合で打率.330・2本塁打・11打点と復調し、シーズン最終盤には再びセカンドのスタメンを任されるようになった。トータルでは81試合・打率.272・4本塁打・20打点という成績だった。 1948年、主に7番・セカンドで4月の12試合全てに先発出場し、うち11試合で安打を記録。4月は打率.333・出塁率.423・OPS0.956と、前年に続いて幸先の良いスタートとなった。その後、7月に26試合で月間打率.265とやや失速したが大崩れはせず、年間での成績は87試合・打率.298・1本塁打・21打点だった。 1949年は、107試合・打率.253・0本塁打・25打点という成績で、MLBでは自身初めて本塁打なしに終わった。シーズンの前半には代打としての出場も増えたため、先発出場は107試合中63試合だった。また、セカンドだけでなく、14試合でサードの守備も務めた。 1950年、前年と比べて更に三塁を任される機会が増え、二塁を守った試合が53試合、三塁を守った試合が42試合となった。打つ方では、後半戦に61試合で打率.330・2本塁打・18打点と調子を上げ、年間では自己最多の115試合に出場して打率.282・3本塁打・25打点という成績だった。 1951年5月9日、ボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)戦の8回表に代打で出場し、MLB通算500試合出場を達成。シーズンでは二塁・三塁・代打などをこなして、前年の自己記録を上回る125試合に出場。こちらも自己最多となる107安打を放った。 1952年、シーズンの全試合(154試合)に三塁のスタメンとして出場し、リーグ3位・チームトップとなる180安打を放った。9月に月間打率.196と調子を落としたこともあって打率3割は達成出来なかったが、打点も前年から倍増させるなど、過去最高のシーズンとなった。 1953年は、5月の月間打率が.198、6月の月間打率が.368、そして9月の月間打率が.205とやや波のあるシーズンだったが、150試合でサードとして先発出場し、打率.275・8本塁打・49打点を記録してレギュラーの役割を全うした。本塁打と打点では自己記録を更新した。 1954年も専ら三塁を務めて110試合に出場し、打率.269・3本塁打・23打点だった。また、8月28日のピッツバーグ・パイレーツ戦に出場したことで、MLB通算1,000試合出場を達成した。 1955年、レギュラーシーズン開幕当初は代打を任され、4月に出場した7試合は全て代打での出場だった。当初は快音が聞かれず、5月終了時点では僅かに3本の安打しか記録していなかったが、5月末に三塁のスタメンに返り咲くと徐々に調子が上がり、前半戦終了時点での成績は50試合・打率.297・2本塁打・16打点だった。その後、後半戦が始まって間もない7月26日にシカゴ・ホワイトソックスへの移籍が決まり、アダムズは長年所属したレッズを去ることとなった。
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シンシナティ・レッズ時代
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「ウィラード・ハーシュバーガー」の記事における「シンシナティ・レッズ時代」の解説
レッズの監督のビル・マケシュニーは、ハーシュバーガーがスプリングトレーニングで非常によいプレーしていたため、正捕手であるアーニー・ロンバルディの座を脅かす可能性があると述べた。マケシュニーはメジャーのロースターにハーシュバーガーを入れてロンバルディのバックアップ捕手とした。このシーズンは主に代打として49試合に出場し、打率.276、0本塁打、12打点を記録した 。そして、身長190cmの正捕手ロンバルディのニックネームである「ビッグスラッグ」に因み「リトルスラッグ」(ハーシュバーガーの身長は170cm台) というニックネームを獲得した 。 尚、スプリングトレーニングでハーシュバーガーに「正捕手の座を脅かされる」とされたロンバルディだったがこの年、打率.342、19本塁打、95打点を記録してナショナルリーグの首位打者、そしてMVPとなる活躍を見せている。 1939年、ハーシュバーガーは6月のロンバルディの負傷により出場機会を増やした。その間に、5試合で8安打、5打点を記録した 。シーズンでは63試合に出場し、打率.345、0本塁打、32打点、10犠打、盗塁阻止率44%を記録した。 同年のワールドシリーズでは古巣のヤンキースと対戦した。シリーズはレッズが敗れたが、ハーシュバーガーは全4試合中3試合に出場して2打席で1安打を記録した。ワールドシリーズでの1安打は、ゲーム4での同点打だったが、試合はヤンキースが勝利している 。 1940年もハーシュバーガーは、前の2シーズンと同様に、シンシナティ・レッズでロンバルディのバックアップ捕手を務めた。主にロンバルディのリリーフをする形で出場し、5月末の打率は.429、6月末の打率は.345と打撃好調だった 。7月に入るとロンバルディは指を負傷した為、ハーシュバーガーの出場機会が増加した。更にロンバルディが7月26日に足首を捻挫して戦線を離脱した為、ハーシュバーガーが正捕手を務めることとなった。当時の打率は.354と好調を維持していた 。 その中で、7月31日のポログラウンズでのニューヨーク・ジャイアンツとの試合にハーシュバーガーは5番・捕手としてフル出場した。試合はレッズが9回表終了時点で4対1と3点リードしていた。ところが、9回裏2死ランナー無しから1番打者に四球を出した直後に2番打者でパワーヒッターではないバージェス・ホワイトヘッドにツーランホームランを打たれて1点差とされた。続く3番で強打者のメル・オットを敬遠したが、4番打者だがパワーヒッターではないハリー・ダニングにサヨナラツーランホームランを打たれて4対5で敗れた。自身の打撃成績は3打数無安打、1犠打だった。 移動日を挟んで、レッズは8月2日にボストンでボストン・ビーズとのダブルヘッダーを行い、両ゲームそれぞれ10–3と4–3のスコアで敗れた。ハーシュバーガーは第一試合は出場せず、第二試合のみ5番・キャッチャーとしてフル出場した。試合は一時は3対1でシンシナティがリードしていたが、自身の守備のミスもあって8回に同点に追いつかれた。追いつかれて以降、延長10回表1死一塁と延長12回表2死一塁で打席が回ってきたが2度とも凡退した挙句、延長12回裏1死から2連打され、満塁策を採ったが次の打者にヒットを打たれてサヨナラ負けを喫した。更に自身の打撃成績は、第1打席で四球を選んで以降は1三振を含む5打数連続無安打且つ、凡退した5打席全てでランナーが塁にいた。 尚、この試合のビーズの6番ショートはハーシュバーガーがヤンキースからシンシナティにトレードされた時の相手であるエディ・ミラーだった。打撃成績は8回裏の同点とする2点タイムリーツーベースを含む5打数2安打2打点だった。 つまり、ハーシュバーガーは自身がフル出場した2試合連続でサヨナラ負けを喫したのである。これに加えて2試合共先述の様に好調だった打撃を期待されての5番での先発出場だったにもかかわらず、この2試合で8打数無安打、1三振、1四球、1犠打、6残塁 (尚、残塁はジャイアンツ戦では記録していないので全てビーズ戦でのもの) という惨憺たる成績だった。これが後述の自殺の引き金となったのである。
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