ショーヌ公爵との乱痴気騒ぎ
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「ショーヌ公爵との乱痴気騒ぎ」の解説
当時のパリでは、あるひとりの女優があらゆる階級の男たちを惹きつけていた。名前をメナール嬢といい、宮廷貴族から町民まで誰もが先を競って彼女に近づきたがり、彼女のために大金をはたいていた。彼女が一通りの男から贈り物を受け取ったところへ、フランス十二大貴族のショーヌ公爵がその競争へ加わり、たちまちほかの男たちを蹴散らして彼女を自分の愛人とし、娘まで産ませるに至った。ショーヌ公爵は確かに血筋は抜群に良かったものの、異常な性格の持ち主であった。才気のある男ではあったが、判断力に乏しく、高慢であり、粗暴な男であった。なぜかはわからないが、この公爵はボーマルシェを気に入り、交際を結んでいたという。 普通にしていればそのまま幸福に過ごせただろうものを、判断力に乏しい公爵は、自ら余計なことをしでかした。ある日、公爵は愛人であるメナール嬢の家に親しい友人たちを招こうと考えた。その招かれた友人のうちの1人が、ボーマルシェであった。伝わっている資料から察するに、血筋以外に魅力のない公爵のどこを好きになったのかはわからないが、メナール嬢も彼の嫉妬と乱暴には辟易していたらしい。ボーマルシェの王侯貴族さながらの優雅な物腰にメナール嬢は惹かれたらしく、すぐに関係が始まったようだ。ところが、ボーマルシェも相変わらず軽率であった。彼はメナール嬢と自分の関係を言い訳しようと公爵に宛てて手紙を認めたが、その内容たるや、ひどいものであった。相手の嫉妬心を刺激する記述から始まり、延々と公爵を怒らせるような皮肉、言葉を並べ立て、最期に虫のいい提案で手紙を締めくくる。異常な性格の持ち主に、もっとも拙い内容の手紙を送ったのだ。 1773年2月11日、ついに問題が起きた。この当日の一件に関しては、ボーマルシェとその友人ギュダンが詳細に記録を遺している。この日の午前11時頃、メナール嬢の部屋に公爵がやってきた時、その傍にはギュダンとメナール嬢の女友達がいた。ギュダンと女友達は、公爵の暴力に怯えて、ボーマルシェの身を案じる彼女を慰めているところであった。この際、メナール嬢がボーマルシェを立派な紳士だと弁護したがために、公爵はとうとう激昂し、ボーマルシェと決闘を行うと断言して部屋を飛び出ていった。ギュダンはボーマルシェの家に事情を知らせに急行するが、その途中で馬車に乗るボーマルシェに出くわした。決闘に巻き込まれるから避難するように言うギュダンであったが、ボーマルシェは仕事(王室料地管理代官としての審理)があるから、それが終わったら伺うと答えて去っていった。 ギュダンは、帰宅途中に運悪くポンヌフのそばで、ボーマルシェの家に向かう公爵に捕まった。大柄な公爵に抵抗するすべもなく馬車の中に引きずり込まれ、その馬車の中でボーマルシェに対する恐ろしい脅迫を聞かされた。暴れまわって抵抗するギュダンを強引に抑え込もうとする公爵であったが、彼が大声で警察に助けを求めたために、公爵はそれ以上手出しできなくなった。ボーマルシェの家の前に到着すると、公爵は乗り込んでいった。ギュダンはこの時にすきを見て逃げ出したらしい。家にいた召使から主人の居場所を聞き出した公爵は、ルーヴル宮殿内の法廷に飛んで行き、そこで審理中のボーマルシェのもとへ現れ、法廷外へ今すぐ出るように要求した。公爵があまりにやかましいので、ボーマルシェは審理を一時中断して、小部屋へ彼を移動させた。その小部屋でおよそ大貴族にはふさわしくない言葉遣いでボーマルシェを罵る公爵であったが、しばらく待つように伝え、再び仕事に取り掛かるボーマルシェであった。 いざ審理が終わると、公爵が即刻決闘を迫ってきた。家に剣を取りに帰りたいとボーマルシェが告げても、ある伯爵を立会人に考えているから彼に借りればよい、と取り合わなかった。自身の馬車ではなく、公爵はボーマルシェの馬車に飛び乗ってある伯爵邸に出向いたが、ちょうど伯爵は出かけようとしているところであった。宮廷へ出向かなければならない、と立会を断られたので、公爵はボーマルシェを自邸に拉致しようとしたが、ボーマルシェはこれを断固として拒否し、自宅へ帰ることにした。相変わらず馬車に飛び乗ってきた公爵は、馬車内でもボーマルシェを徹底して罵倒したが、彼は余裕を見せて公爵を食事に招いたという。 自宅に着くと、公爵の激越な態度に脅える父親を落ち着かせて、ボーマルシェは2人分の食事を運ぶように召使に指示を出して2階の書斎に向かった。後を付いてきた召使に、剣を持ってくるように伝えたが、剣は研磨に預けていて手元にないという。取ってくるように言うボーマルシェであったが、公爵はそれを遮って「誰も外出してはならない。さもなければ殺す」と興奮気味に語る。なんとかして公爵を落ち着かせようと努力するボーマルシェであったが、その努力も虚しく、とうとう公爵は武力行使に打って出た。ボーマルシェの机の上に置いてあった葬儀用の剣に飛びつくと、自身の剣は腰につけたままでおきながら、剣を引き抜いて斬りかかってきたのである。ボーマルシェは剣が届かないように公爵に組みかかり、召使を呼ぶために呼び鈴をならそうとした。公爵が空いている片方の手で爪をボーマルシェの目に立てて顔を引き裂いたので、彼の顔は血まみれになった。なんとか呼び鈴を鳴らして、やってきた召使に向かって、公爵を抑えている間に剣を取り上げるように叫んだ。ここで乱暴な真似をすれば、後々になって「殺されかけた」などとうそをつくかもしれないと考えたようで、手荒な真似はさせなかったらしい。剣を取り上げられた公爵は、今度はボーマルシェの髪に飛びついて、額の毛をそっくりむしり取った。あまりの痛みに公爵を抑えていた手を放してしまったボーマルシェであったが、そのお返しに公爵の顔面に拳をぶち込んだ。 この際、公爵は「十二大貴族の一人を殴るとは何たる無礼か!」と口走ったらしい。すでに当時からこのような考えは時代錯誤であり、ボーマルシェ自身も「他の時であったなら、このような台詞には笑ったと思う」としているが、何しろお互いに節度を失って壮絶な殴り合いを繰り広げている真っ最中であった。そこへ、ボーマルシェの身を案じたギュダンが飛び込んできた。血まみれの顔をしているボーマルシェを見て驚いたギュダンは、彼を伴って2階へあがろうとしたが、怒り狂った公爵は自身の佩刀を抜き、突きかかろうとしてきた。召使たちが公爵に飛びついてなんとか剣をはぎ取ったが、頭や鼻や手に傷を負う者が出た。剣をはぎ取られた公爵は台所へ駆け込み、包丁を探しだしたので、召使たちはその後を追って殺傷能力のあるあらゆる道具を隠した。武器が見つからないことを悟った公爵は一人食卓に腰を下ろし、台所に準備されていたスープと牛の骨付き肉を平らげたという。ここでようやく警察が到着し、公爵とボーマルシェの乱痴気騒ぎは終わりを迎えた。この晩、ボーマルシェは包帯を体に巻き付けて、サロンに出向き、『セビリアの理髪師』の朗読やハープ演奏を行ったという。 当然、この騒ぎを裁く法廷が開かれた。貴族間の争いを裁く軍司令官法廷は、公爵とボーマルシェの邸宅に警備兵を置いて監視させ、両者を尋問した。この法廷とは別に、宮内大臣ラ・ヴリイエール公爵はボーマルシェに数日間パリを離れるように命令を出したが、ショーヌ公爵の怒りを恐れて逃げ出したと受け取られることを心外であると考え、この命令に従わなかった。結局、ショーヌ公爵の非を認め、ボーマルシェの行為を正当防衛と認める裁定が下され、公爵は王の封印状によって2月19日、ヴァンセンヌ牢獄にぶち込まれた。ところが、宮内大臣はこの裁定に不満があったらしい。ショーヌ公爵は先述したように、血筋の抜群に良い大貴族であった。その大貴族が牢獄に放り込まれているのに、貴族とはいえ平民出身の成り上がりが自由の身に置かれていることを問題視したのかもしれない。大臣は職務上、王の封印状を手に入れるのは容易であったから、それを手に入れて、2月24日にボーマルシェを牢獄にぶち込んだのであった。 この2人は、5月上旬に揃って出獄を許された。たとえ3か月程度とはいえ牢獄に放り込まれて充分懲りたのか、メナール嬢への恋心がずいぶん薄まったのか、いずれにせよ出獄後に楽しく食卓を囲み、和解したという。乱痴気騒ぎの原因となったメナール嬢は、公爵の暴力から逃げ出すために、聖職者や警察長官の助けを得て修道院へ駆けこんだが、その厳しい生活に2週間と耐えられなかったようだ。ちょうど公爵が牢獄にぶち込まれたことをこの頃に知ったようで、もう暴力に脅える必要なしと判断したのかもしれない。ボーマルシェはメナール嬢が修道院から抜け出したことを牢獄内で知り、手紙で修道院へ戻るように勧めているが、彼女はこれに従わなかった。
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