著作権擁護のために
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「著作権擁護のために」の解説
1775年2月23日、『セビリアの理髪師』の初演がコメディー・フランセーズにて行われた。1773年1月の時点で、上演候補作品としてコメディー・フランセーズに受理されていたのだが、ショーヌ公爵との乱痴気騒ぎやグズマン判事夫妻との闘争のおかげで、中々作品を上演することができず、大幅に上演が引き延ばされていた。そのような過程もあって前評判は上々、興行成績でも大成功するかと思いきや、大失敗してしまった。四幕物として書き上げていた同作品を上演数日前に五幕物に書き換えた、つまり、完成されていた作品を無理に太らせたため、作品は冗長な内容となってしまったのである。この書き換え作品で大失敗したため、以前の四幕物に戻されて再度26日に上演され、大成功を収めた。フィガロ三部作の第一作目はこうして産声を上げたのである。 今日でこそ著作権は作者の権利として厳しく守られているが、この当時にあっては著作権は無きに等しいものであった。こうした考えは17世紀初頭から続いており、たとえばオテル・ド・ブルゴーニュ座の座付き作家であったアレクサンドル・アルディやジャン・ロトルーは劇団の求めに応じて作品を次々と書かなければならず、その結果制作された作品も作者の手を離れて、劇団固有の財産となるなど、今日から考えればずいぶん作者を蔑ろにした契約を結ばされていたのである。しかも、作品が一度出版されるとその作品は演劇界共有の財産となり、作者には一切金が入らなくなるなど、理解し難い慣習もあり、モリエールはたびたびこの慣習のせいで迷惑を被っている。 ボーマルシェによれば、劇作家と劇団が対等な立場で契約を交わしたのは、1653年のフィリップ・キノーの例が最初であるという。この契約においてキノーは興行成績から諸経費を引いて残った額の9分の1を得ることになっており、この内容がそのまま1685年になって正式にほかの作家にも適用されることになった。ただ、「人気が落ちたなどして一度上演不可能になった作品が、再度上演された場合の収入は全て劇団のものとなる」という条項があり、その後も手直しが加えられた結果、「夏季に300リーヴル、冬季に500リーヴル以下の収入が2度続いた場合、失敗作とみなし、作者に収入を払う必要はない」との内容に改められた。 ところが1757年になって、コメディー・フランセーズはこの条項を「夏季800リーヴル、冬季1200リーヴル」と無断で書き換えて、劇作家の立場を侵害するようになった。それどころか、本来劇団が支払う「貧者への4分の1税」なる慈善病院への納付金をも作者に一部負担させたり、桟敷席の予約収入はすべて懐に入れたり、作品が成功して上演回数を重ねるにつれて意図的に上演をいったん中止し、その後再演して収入をすべて自分たちのものとするなど、まさにやりたい放題であった。ロンヴェ・ド・ラ・ソーセという劇作家は、その作品が5回の上演で12000リーヴルの収入をあげたにも関わらず、収入を得るどころか、劇団に負債があるとして金を要求される始末であった。さすがに怒ったラ・ソーセは世間に抗議文書を発表した。世間に噂が広がってさすがに無視できなくなったのか、劇場監督官であるリシュリュー公爵は協定の問題点を探って、解決法を見出すようにボーマルシェに依頼したが、この時『セビリアの理髪師』が大成功して、劇団と良好な関係を築いていたボーマルシェには、敢えてこの問題に首を突っ込む理由が見当たらなかった。 だが劇団は、『セビリアの理髪師』に関してもあくどいやり方で臨んできた。ボーマルシェは、同作品の32回目の上演後に正確な収支計算を要求したが、劇団はなかなか返事をよこさなかった。1777年1月3日、劇団幹部の俳優デゼサールが苦情を申し立てられずに済むように、として32回分の上演料として4506リーヴルを差し出してきた。金額につけられるべき収支計算書もなく、デゼサールが大さっぱな見積もりによる金額であると説明してきたため、金の受け取りを拒否し、正確な計算書の提出を求めた。1月6日の劇団宛ての手紙では、正確な収支計算書の作成方法を示している。劇団に断固とした姿勢で臨むボーマルシェであったが、相手が自分の芝居を演じてくれる役者たちであるだけに、慎重な姿勢をも崩さなかった。1月19日、書面自体で収支計算に関して極めて丁寧な申し入れを行っているが、劇団は相変わらず不誠実な対応を繰り返した。確かに収支計算書を送ってはきたものの、そこには誰の署名も入れられていなかった。無署名の文書と言うのは、その正確さがどうであれ、社会的には単なるメモでしかない。ボーマルシェはこの対応に憤慨し、1月24日付の手紙において言葉遣いは丁寧ながらも、責任者の署名と『セビリアの理髪師』の続演の2点を要求し、これまで他の劇作家にしてきたようにあくどいやり方を自分にも貫くのなら、それなりの対応を執ると仄めかした。1月27日、劇団は「上演ごとの収入額は正確に計算できるが、諸経費は日々変化するので、全体としては大雑把な見積もりしかできない」と言い訳の返事をよこしてきた。ボーマルシェはこれに納得せず、日々の経費の計算方法を明示した返事を送りつけた。 劇団は、ボーマルシェが手に負えない相手だと悟ったようで、問題を公正かつ誠実に解決するためとして、顧問弁護士3名と劇団員4名で委員会を結成し、ボーマルシェの要求を検討した上で通知を行うと2月1日付の手紙で伝えてきた。ところが劇団は、この問題の解決のために折れるつもりなど初めからなかったようだ。いつまで待っても返事が来ないボーマルシェのもとをある知人が訪れ、「セビリアの理髪師を上演するよう劇団に要求したが、色々な理由をつけて拒否されている。役者たちは、その原因は我々(役者)にあるのではなく、作者にあると言っている」と伝えたという。ボーマルシェはこの不誠実な態度に怒り、これ以上事を引き延ばすなら、法的手段に訴え出ると書面で宣言した。この宣言に劇団は慌て、ボーマルシェを宥める一方で、宮廷の有力者たちに助けを求めた。 6月15日、ボーマルシェのもとに王室侍従長の1人であるデュラス公爵から手紙が届いた。自分が仲介するから、一度面会したいという。ボーマルシェはこれに応じて、公爵にこの件の簡潔な概要を手紙で送ったのち、6月17日に公爵と面会した。公爵はこの席で「思慮分別のある劇作家を集め、劇団と作家側の抱える問題を解決する規則を作成するよう」ボーマルシェに提案し、自身は「その規則作成に全面的に協力する」と伝えてきた。この提案通りにボーマルシェは劇作家たちに働きかけ、7月3日、ボーマルシェ邸に23人の劇作家が集まった。ボーマルシェは集まった全員に公爵との面会の詳細を報告し、議論を進めた。その結果、ボーマルシェを代表とする4人の委員が選出され、彼が先頭に立って公爵との折衝や劇団との交渉に当たると決定した。こうして、ボーマルシェを代表とした劇作家協会が誕生したのである。 こうして、この問題は『セビリアの理髪師』に関するボーマルシェの個人的問題という範疇を超えて、演劇界全体を巻き込んだ劇作家協会とコメディー・フランセーズの対立に発展していった。劇作家協会の設立後も、この問題に関しては中々ボーマルシェの思うようには事は進まなかった。紆余曲折を経て、結局1780年に国王ルイ16世が直接解決に乗り出したのである。国王の下した裁定では、たしかに収入計算の方法は明確化されたものの、その作品を失敗作とみなす基準が夏季1800リーヴル、冬季2300リーヴルに引き上げられてしまった。国王がこのような高い基準額を設定してしまったため、以前より容易に失敗作とみなされてしまうこととなったのである。 この件に関する、ボーマルシェの闘いは一旦ここで終わりを告げた。絶対王政下では、国王の裁定に異議を下すなど出来るはずもないことであったからだ。この国王の裁定は、劇作家たちの助けとはならず、結局彼らは以前のしきたりに則って上演料をもらい続けたという。フランス革命の勃発は、この問題にも多大な影響を与えた。1791年1月13日、憲法制定国民議会によってコメディー・フランセーズの特権は廃止され、その作品の成否にかかわらず、正式に劇作家の権利が認められるに至ったのである。直接ボーマルシェが劇作家の権利を獲得したわけではないが、彼の闘いは間接的に大きな影響を与えたと言えるだろう。
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