オーデルの戦い
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「オットー・スコルツェニー」の記事における「オーデルの戦い」の解説
1945年1月30日、スコルツェニーはハインリヒ・ヒムラーから命令を受けた。当時、ヴァイクセル軍集団と国民突撃隊の指揮を務めていたヒムラーの命令は普段は訳の分からない点が多かったがこの時ばかりは、明確でポイントをついていた。命令の内容は「できるだけ多くの兵力を集めて直ちにオーデル川の東岸に橋頭堡を築け」というものであり、また「この橋頭堡は、後の攻勢のための発起点として用いるので十分なものでなければならない。また、オーデルへ向かう途中で赤軍に占領されているフライエンヴァルデの都市を奪還せよ」という命令でもあった。スコルツェニーは目標のフライエンヴァルデの状況を集めていたが、奪還作戦は不可能とみていた。何故なら、この町について知る者がおらずまた、ヒムラーの司令部も総統大本営もソ連赤軍の位置を正確に把握していなかったからであった。結局、スコルツェニーはシュヴェットへ向かい、そこに橋頭堡を築こうとして翌朝の5時に1000人ほどの部隊を引き連れ出発した。2時間後、スコルツェニーの部隊はシュヴェットの町へ到着し、すぐに偵察部隊を派遣すると共に部隊の司令所として適当な場所を探した。司令所を確保したスコルツェニーは早速任務にとりかかった。まず、彼は軍隊内部に漂っている厭戦的な感情を一掃するために前線から退却してくる兵士らを食い止めて必要に応じて自分達の部隊に勧誘していった。スコルツェニーにとって赤軍の猛攻に対抗して橋頭堡を守るには手に入る兵力は全て必要であったからである。この作業を進める傍ら、スコルツェニーはどんな兵力が集められるかと考えており、部隊には信頼のおけるフリーデンタール駆逐戦隊の隊員が含まれていたが、他は傷病兵や小銃をあつかえる一握りの工兵、地元の国民突撃隊1個大隊、殆ど訓練を受けていない老人や青年を含む国民擲弾兵師団の約600名の「精鋭」がいるだけであった。地元の部隊のうちで最もましなのは180名の士官候補生のグループであったが、この時たまたまシュヴェットへ向かっていた。こうして迅速に集められた寄せ集めの部隊は兵士の所属がなんであれ強引にすすめられたが、十分もとはとれたようであった。数日後、疲れきった第8騎兵師団所属の生き残りの部隊が町の大通りを通って来たのでスコルツェニーはこの一団を兵舎に迎えて部隊に組み入れた。こうして、部隊には少しずつ兵力が増え、ついには歩兵4個大隊に匹敵する兵力となっていった。スコルツェニーは重火器の配備を行い工場から何門かの75mm対戦車砲を調達し、また、多数の機関銃の獲得にも成功した。それでも満足しない彼はこの地域で入手できる88mm高射砲を全てかき集め、これをトラックに搭載して自走砲兵予備斑として運用した。 スコルツェニーがこうした活動にあたっている最中、国家元帥であるヘルマン・ゲーリングから電話がかかってきた。ムッソリーニ救出の活躍を称え、スコルツェニーの気持ちをくんでいたゲーリングは、翌日、自分の別荘である「カリン・ハル」から「ヘルマン・ゲーリング師団」に属する精鋭600人からなる1個大隊を送ってきた。この部隊の兵員はその殆どが空軍の搭乗員の出身で、搭乗機がないまま地上勤務についた連中で驚くほどに経験不足であった。これらの若い兵士を見たスコルツェニーは彼らが長く持ちこたえられないだろうと考え、騎士鉄十字章を受けていたその部隊の指揮官である少佐の反対を押し切って自分の配下の各部隊に編入してしまった。こうして兵力の配備は完了し、この混成部隊は師団並みの戦力に膨れ上がっていた。総計で15,000人の将兵を指揮下におさめたが、ヨーロッパ各地のあらゆる兵士を集めたと言ってよく、その中にはソ連の兵士までまじっており、この部隊は『シュヴェット師団(Division Schwedt)』と正式に命名された。しかし、スコルツェニーが戦後語るところによればシュベット師団は「小型のヨーロッパ連合」の様相であり、彼自身は「ヨーロッパ師団」と呼んでいる。 2月の初め、スコルツェニーは偵察斑を率いて赤軍の戦力を確かめるために出発した。バート・シェーンフリースの町へ到着すると駅で30両の戦車を確認し、殆どがT-34であったがレンドリースされた何台かのシャーマン戦車も駅の反対側に隠されて配置されていた。赤軍は町の南方と東方の家屋やキャンプに宿泊しており、十分な情報を得たスコルツェニーは引き返そうとしたが突如、駅付近で戦車が稼働し始める音がしていた。赤軍が攻撃を開始したのは暫くしてからで、40両ちかいT-34と歩兵数個大隊がケーニヒスベルクへ向けて突入してきた。スコルツェニー指揮下の降下猟兵は、退却しつつも家から家に移って戦闘を続け、ハンブルクから来ていた国民突撃隊の支援をうけて戦車10数台を撃破している。しかし、スコルツェニーにとって、敵は赤軍のみならず内部にも存在していた。その日の夕方、スコルツェニーはシュヴェットに帰還したが、ケーニヒスベルクの国民突撃隊指揮官が戦闘司令所で彼の帰りを待っており、興奮しながらこう言った「中佐殿、お待ちしておりました、ケーニヒスベルクでは全滅しました」この国民突撃隊指揮官はベルリンの政府と特別の関係がある党の上級役員であったが、スコルツェニーはそのようなことはおかまいなしにこの指揮官を逮捕している。なお、この処置にナチ党官房長のマルティン・ボルマンは激怒し、スコルツェニーの行動は無責任極まるとして「復讐してやる」と息巻いていた。スコルツェニーにとって「銃後」の問題は党とのトラブルだけではなかった。数日後、彼の担当する地域の軍団長に新たにSSのエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー将軍が就任することを知った。スコルツェニーはかつてこの将軍とトラブルをおかしており、彼の予測どおり将軍はスコルツェニーの指揮に対して干渉してくるようになる。シュヴェットの戦闘司令所には命令や要請、要求がなだれ込み、これにスコルツェニーは激怒し後にこう書いている。「私を激怒させたのはバッハ=ツェレウスキー将軍の参謀が誰一人としてシュヴェットの橋頭堡を尋ねて来なかったことだった。バッハ=ツェレウスキー自身は、シュヴェットの城にある戦闘司令所を1、2度訪問したことがある。しかし、私はそこに殆どとどまっていなかったため、私の部下の将校から報告を聞くだけで満足し、コニャックを飲んで自分の司令部に帰ってしまった」結局、スコルツェニーはバッハ=ツェレウスキーからくる命令は一切、無視することにしている。 1945年2月7日頃、赤軍からの激しい攻勢により、スコルツェニーは引き下がることになった。赤軍はスコルツェニーの戦闘司令所付近にまで侵入し、古城めがけて次々に砲撃を浴びせていた。城の防衛にあたっていた2個大隊の指揮官たちは「決戦兵器」ともいえるパンツァーファウストをかき集めこれに反撃した。そればかりにとどまらず、自ら決死の肉薄攻撃を仕掛ける者も存在していた。赤軍の接近により各地で同じような激戦が繰り返され、スコルツェニーは必死で戦ったが川の対岸のニッパービーゼの前哨から引きあげる必要に迫られ、これを聞いて激怒した最高司令部は無電による報告を行い、プレンツラウの司令部で待機しているヒムラーのもとに来るように命令した。その夜、スコルツェニーがヒムラーのもとに到着すると、そこではよそよそしい雰囲気でありヒムラーの副官が冷淡な口調でスコルツェニーが時間をまもらないことで非常に立腹していると説明され、面会するとヒムラーはスコルツェニーに向かい激しい口調でなじり始めた。スコルツェニーが怒鳴るように応酬するとヒムラーは急に落ち込み静かになり、さっきまで軍事裁判にかけようとしていた態度を改め、今度は夕食に招待するほどの変わりようになった。スコルツェニーはヒムラーから1門の突撃砲をあてがわれ、彼に必要なものを与える約束をとりつけたが、結局、これらの約束は守られなかった。
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