オーデルの戦いとは? わかりやすく解説

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オーデルの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:09 UTC 版)

オットー・スコルツェニー」の記事における「オーデルの戦い」の解説

1945年1月30日スコルツェニーハインリヒ・ヒムラーから命令受けた当時ヴァイクセル軍集団国民突撃隊指揮務めていたヒムラー命令普段は訳の分からない点が多かったがこの時ばかりは、明確でポイントをついていた。命令内容は「できるだけ多く兵力集めて直ちオーデル川東岸橋頭堡築け」というものであり、また「この橋頭堡は、後の攻勢のための発起点として用いるので十分なものでなければならないまた、オーデルへ向かう途中で赤軍占領されているフライエンヴァルデの都市奪還せよ」という命令でもあった。スコルツェニー目標のフライエンヴァルデの状況集めていたが、奪還作戦不可能とみていた。何故なら、この町について知る者がおらずまた、ヒムラー司令部総統大本営ソ連赤軍位置正確に把握していなかったからであった結局スコルツェニーシュヴェット向かい、そこに橋頭堡築こうとして翌朝の5時に1000人ほどの部隊引き連れ出発した。2時間後、スコルツェニー部隊シュヴェットの町へ到着し、すぐに偵察部隊派遣すると共に部隊司令所として適当な所を探した司令所を確保したスコルツェニーは早速任務とりかかった。まず、彼は軍隊内部漂っている厭戦的な感情一掃するために前線から退却してくる兵士らを食い止めて必要に応じて自分達の部隊勧誘していった。スコルツェニーにとって赤軍猛攻対抗して橋頭堡を守るには手に入る兵力全て必要であったからである。この作業進め傍らスコルツェニーはどんな兵力集められるかと考えており、部隊には信頼のおけるフリーデンタール駆逐戦隊隊員含まれていたが、他は傷病兵小銃あつかえる一握り工兵地元国民突撃隊1個大隊、殆ど訓練受けていない老人青年を含む国民擲弾兵師団の約600名の「精鋭」がいるだけであった地元部隊のうちで最もましなのは180名の士官候補生グループであったが、この時たまたまシュヴェット向かっていた。こうして迅速に集められ寄せ集め部隊兵士所属なんであれ強引にすすめられたが、十分もとはとれたようであった数日後疲れきった第8騎兵師団所属生き残り部隊が町大通り通って来たのでスコルツェニーはこの一団兵舎迎えて部隊組み入れた。こうして、部隊には少しずつ兵力増えついには歩兵4個大隊匹敵する兵力となっていった。スコルツェニー重火器配備行い工場から何門かの75mm対戦車砲調達しまた、多数機関銃獲得にも成功した。それでも満足しない彼はこの地域入手できる88mm高射砲全てかき集め、これをトラック搭載して自走砲予備斑として運用したスコルツェニーこうした活動にあたっている最中国家元帥であるヘルマン・ゲーリングから電話かかってきた。ムッソリーニ救出活躍称えスコルツェニー気持ちをくんでいたゲーリングは、翌日自分別荘である「カリン・ハル」から「ヘルマン・ゲーリング師団」に属す精鋭600からなる1個大隊送ってきた。この部隊兵員はその殆どが空軍搭乗員出身で、搭乗機がないまま地上勤務についた連中で驚くほどに経験不足であった。これらの若い兵士見たスコルツェニーは彼らが長く持ちこたえられないだろうと考え騎士鉄十字章受けていたその部隊指揮官である少佐反対押し切って自分配下各部隊編入してしまった。こうして兵力の配備完了し、この混成部隊師団並み戦力膨れ上がっていた。総計15,000人の将兵指揮下におさめたが、ヨーロッパ各地あらゆる兵士集めたと言ってよく、その中にはソ連兵士までまじっており、この部隊は『シュヴェット師団Division Schwedt)』と正式に命名された。しかし、スコルツェニー戦後語るところによればシュベット師団は「小型ヨーロッパ連合」の様相であり、彼自身は「ヨーロッパ師団」と呼んでいる。 2月初めスコルツェニー偵察斑を率いて赤軍戦力確かめるために出発した。バート・シェーンフリースの町へ到着すると駅で30両の戦車確認し、殆どがT-34であったレンドリースされた何台かのシャーマン戦車も駅の反対側に隠され配置されていた。赤軍は町の南方東方家屋キャンプ宿泊しており、十分な情報得たスコルツェニー引き返そうとしたが突如駅付近戦車稼働し始める音がしていた。赤軍攻撃開始したのは暫くしてからで、40両ちかいT-34歩兵数個大隊ケーニヒスベルク向けて突入してきた。スコルツェニー指揮下の降下猟兵は、退却しつつも家から家に移って戦闘続けハンブルクから来ていた国民突撃隊支援をうけて戦車10数台を撃破している。しかし、スコルツェニーにとって、敵は赤軍のみならず内部にも存在していた。その日夕方スコルツェニーシュヴェット帰還したが、ケーニヒスベルク国民突撃隊指揮官戦闘司令所で彼の帰り待っており、興奮しながらこう言った中佐殿、お待ちしておりましたケーニヒスベルクでは全滅しました」この国民突撃隊指揮官ベルリン政府と特別の関係がある党の上役員であったが、スコルツェニーそのようなことはおかまいなしにこの指揮官逮捕している。なお、この処置ナチ党官房長マルティン・ボルマン激怒しスコルツェニー行動は無責任極まるとして「復讐してやる」と息巻いていた。スコルツェニーにとって「銃後」の問題は党とのトラブルだけではなかった。数日後彼の担当する地域軍団長新たにSSエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー将軍就任することを知ったスコルツェニーはかつてこの将軍トラブルおかしており、彼の予測どおり将軍スコルツェニー指揮に対して干渉してくるようになるシュヴェット戦闘司令所には命令要請要求がなだれ込み、これにスコルツェニー激怒し後にこう書いている。「私を激怒させたのはバッハ=ツェレウスキー将軍参謀誰一人としてシュヴェット橋頭堡尋ねて来なかったことだった。バッハ=ツェレウスキー自身は、シュヴェットの城にある戦闘司令所を1、2訪問したことがある。しかし、私はそこに殆どとどまっていなかったため、私の部下将校から報告聞くだけで満足しコニャック飲んで自分司令部帰ってしまった」結局スコルツェニーバッハ=ツェレウスキーからくる命令一切無視することにしている。 1945年2月7日頃、赤軍からの激し攻勢により、スコルツェニー引き下がることになった赤軍スコルツェニー戦闘司令付近にまで侵入し古城めがけて次々砲撃浴びせていた。城の防衛にあたっていた2個大隊の指揮官たちは「決戦兵器」ともいえるパンツァーファウストをかき集めこれに反撃したそればかりとどまらず、自ら決死肉薄攻撃仕掛ける者も存在していた。赤軍接近により各地同じよう激戦繰り返されスコルツェニー必死戦ったが川の対岸のニッパービーゼの前哨から引きあげる必要に迫られ、これを聞いて激怒した高司令部は無電による報告行い、プレンツラウの司令部待機しているヒムラーのもとに来るように命令したその夜スコルツェニーヒムラーのもとに到着すると、そこではよそよそしい雰囲気でありヒムラー副官冷淡な口調スコルツェニー時間をまもらないことで非常に立腹していると説明され面会するヒムラースコルツェニー向かい激し口調でなじり始めたスコルツェニーが怒鳴るように応酬するヒムラー急に落ち込み静かになり、さっきまで軍事裁判かけようとしていた態度改め今度夕食招待するほどの変わりようになったスコルツェニーヒムラーから1門の突撃砲あてがわれ彼に必要なもの与え約束とりつけたが、結局、これらの約束守られなかった。

※この「オーデルの戦い」の解説は、「オットー・スコルツェニー」の解説の一部です。
「オーデルの戦い」を含む「オットー・スコルツェニー」の記事については、「オットー・スコルツェニー」の概要を参照ください。

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