エスファハーンは世界の半分―サファヴィー朝とは? わかりやすく解説

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エスファハーンは世界の半分―サファヴィー朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 20:15 UTC 版)

イランの歴史」の記事における「エスファハーンは世界の半分―サファヴィー朝」の解説

詳細は「サファヴィー朝」を参照 今日イランシーア派イラン黄金期として想起されるとすれば、それはサファヴィー朝である。言語的民族的視点からはハカーマニシュ朝サーサーン朝文化的視点からはセルジューク朝黄金期想起されるが、なおシーア派視点加える時、帝国としての偉大さ」を想起する候補としてはサファヴィー朝よりほかにないからである。しかし、サファヴィー朝もなお、その起源性格において前代から引き続くトルコマーン系政権属していたことは明らかであったサファヴィー朝ティムール朝黒羊朝白羊朝イラン高原の覇を競うなかで西北アゼルバイジャンアルダビールから勢力拡大しイラン統一したサファヴィー朝は、もともとは13世紀半ば確固とした姿をあらわす在地神秘主義教団であるサファヴィー教団英語版)をなす家であった教団内部争いなどから、アナトリア東北部からアゼルバイジャンにかけてのトルコマーン系遊牧民との交流拡大し、彼らの支持集めるためにサファヴィー教団は非常に神秘的なシーア言説用いようになったこうしたことからサファヴィー教団は、12のひだ(シーア派12イマームの数)のついた赤い帽子をかぶるトルコマーン系遊牧民、すなわちクズルバシュ(キズィルバーシュ,テュルク語。赤い頭)を背景政治勢力化してゆく。 1494年黒羊朝との戦いで命を落とした兄をついだのが14歳イスマーイール1世である。イスマーイールはキズィルバーシュを率いて1501年黒羊朝破ってタブリーズ入ってアゼルバイジャン手中におさめ、さらに1508年白羊朝滅ぼしてメソポタミアもその版図入れたイラン世界西部手中にしたイスマーイールは東部においてティムール朝滅ぼしたシャイバーニー朝激突1510年マルヴ会戦衝突し君主シャイバーニー・ハーン討ち取りイラン高原サファヴィー朝によって統一されることになった。しかしイラン高原統一勢力出現は、アナトリア東部における過激シーア派トルコマーンの存在叛乱続発という事態を背景として、西方大帝国オスマン朝注意を引いた1514年8月23日、スルタン・セリム1世率いオスマン朝軍とイスマーイール1世率いサファヴィー朝軍は東部アナトリア・チャルディラーンで会戦オスマン朝軍の火力備えた組織的歩兵戦力のまえに、サファヴィー朝キズィルバーシュ騎兵戦力惨敗した。 このときに至るサファヴィー朝奉じシーア派過激シーア派称せられるようなものであった。それはトルコマーン系遊牧民シャーマニズム混淆し、さらにイスマーイール無謬地上における神の影、救世主とするようなもので、イスラーム教義逸脱しかねないものであった。すなわちサファヴィー朝一種神秘的熱狂裏付けられ勢力であったのであるしかしながら、チャルディラーンの敗北は、こうした性格後退させ、トルコマーン系遊牧民タージーク官僚からなる伝統的な体制へと変容してゆく。宗教面でもレバノンバーレーンなどから高名なシーア派法学者招致し王朝シーア派教義洗練につとめ、法学精緻さを高めていった。 1524年イスマーイール1世没すると、キズィルバーシュ間の勢力争いによる混乱陥る。後をついだタフマースプ1世は、その長い治世のはじめの10年こそ傀儡立場置かれたが、やがてキズィルバーシュ間の勢力均衡グルジア系の人々登用などにより小康状態導き度重なるオスマン朝シャイバーン朝侵攻許しつつもよく耐えた。1576年タフマースプ1世没すると、再び母后やこれと結びついたキズィルバーシュ勢力によって国政混乱した1587年即位したアッバース1世はキズィルバーシュ勢力間の争いをおさめるとともに、さらに彼らの勢力を削いで実権掌握中興英祖として名高く大帝」を冠して呼ばれる。トルコマーン系政権混乱は、遊牧部族民の半独立傾向相互争いから生ずるものであるが、それはサファヴィー朝例外ではなかった。武力部族民に依存し中央直轄軍事力欠きやすいトルコマーン=タージーク体制特徴ともいえる。アッバースは、カフカズ出身(特にグルジア奴隷からなるグラーム軍団各部族から引き抜いて編成したコルチ軍団の両騎兵、さらに銃砲兵をペルシア系住民によって編成し常備直轄兵化、軍事力のキズィルバーシュへの依存避けた。この改革サファヴィー朝軍制一変させるとともに財政的裏付けのために王領地の増加直轄化などがおこなわれ権力構造著しく変容させた。こうしたことから対外的にも軍事力組織的運用が可能となり、東にシャイバーン朝からホラーサーン、西にオスマン朝からバグダード奪還した1598年アッバースは都を北西部カズヴィーンから中部エスファハーンへと遷した。これまでアゼルバイジャンあるいはホラーサーン方面置かれ首都イラン高原中央のエスファハーンへと遷されたことは、アッバースによる権力体制変革を示すものである同時にペルシア湾重要性増加を示すものでもあった。アッバース1世時代貨幣経済著しく発展し、絹貿易などによる好景気沸いたムガル朝のもとで安定するインドとの交易進展しホルムズ拠点としたポルトガルをはじめ大航海時代入ったヨーロッパ諸勢力ネーデルラント連邦共和国イングランド王国)は競ってアッバース宮廷使節派遣したロバート・シャーリーによってペルシア軍が近代化すると、1622年にはホルムズポルトガルから奪ってホルムズ占領)、バンダレ・アッバース中心とする貿易体制確立したアッバース街道港湾整備治安維持によって交易条件整えとともに保護貿易姿勢出て莫大な利益獲得文化的にレザー・アッバースィー細密画などの写本芸術、あるいはムッラー・サドラーシーア派哲学などが発達イラン実質的なシーア化の進展はこの時代のことであったアッバース1世時代は、まさにサファヴィー朝黄金時代であり、40人口擁する新都エスファハーンは「世界半分」と謳われ今日世界遺産としてその姿をとどめている。アッバース没したのは1629年のことであったアッバース没後1660年代ころまでのサフィー1世アッバース2世時代ころまではサファヴィー朝それなりの安定保った1638年オスマン帝国反撃にあい、現在のイラク領域失い1639年にはガスレ・シーリーン条約英語版)によってオスマン朝との間の国境線確定長く続いたオスマン戦争終止符打たれている。しかし、その後は、宮廷におけるキズィルバーシュ、ペルシア系文官カフカズ系、さらにハラムからんだ勢力争い中央混乱に陥り、給料遅配などで叛乱続発地方治安極度に悪化したペルシア湾では海賊跳梁し、インド産品優位性奪われ交易利益著しく減少したこのような状況下で物価乱高下しサファヴィー朝経済壊滅状態に陥ってゆく。18世紀に入ることには、アッバース1世以降続けられ地方軍削減首都への過度兵力集中によって辺境地方防衛体制脆弱化して混乱状態に拍車をかけた。東方から進出したアフガーン民族は、1722年、あっさりと首都エスファハーン入城し統一政権としてのサファヴィー朝滅亡したのである

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