エスプリ・ヌーヴォー館とソビエト館とは? わかりやすく解説

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エスプリ・ヌーヴォー館とソビエト館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:55 UTC 版)

パリ万国博覧会 (1925年)」の記事における「エスプリ・ヌーヴォー館とソビエト館」の解説

この展覧会異彩を放ったのは、装飾的とは言い難いモダニストであるル・コルビュジエが手がけたエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンと、構成主義者のコンスタンチン・メーリニコフ設計したソビエト連邦のソビエト・パビリオンであった。これらの館にも家具絵画展示されていたが、建物自体展示品もより簡素でより前衛的であったコルビュジエとメーリニコフの装飾排し建築は、批判絶賛同時に浴びた批判の声は、これらの建物がリュールマンの「コレクショヌール館」や装飾芸術協会の「フランス大使館」などと比べあまりにもむき出し」であることに集中したコルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンは白い箱型建物で、壁面には大きなガラス窓四角「穴」があった。中には大きな窓のある真っ白な吹き抜け居間寝室台所などがあり、「穴」居間連続して設けられた、同じ屋根の下にある半屋外テラスを外から見た姿だった。装飾はなく幾何学的形状しか用いられていないが、その分建物を外から見た際の凹凸内部空間多様さで表情与えられていた。このパビリオンモダニズム建築簡素さだけでなく、コルビュジエ唱える幅広い思想理論がこのパビリオン結集していたことが今日でも注目される。「エスプリ・ヌーヴォー」(「新思潮」)は彼が1920年創刊し建築思想に関する論文掲載した雑誌の名である(これらの論文1923年著書建築をめざしてへとまとめられた)。館内では「ヴォアザン計画」(Plan Voisin)が展示された。フランス先駆的な飛行家ガブリエル・ヴォアザンの名をとったこの計画は、同一の形をした高さ200mガラス張り摩天楼群と、低層長方形アパート規則正しく並ぶ街並みにより、建物密集したパリセーヌ川右岸一帯市街地置き換えるという都市計画であった。後に「輝く都市」へとつながったこの計画は、パリでは実現することはなかったものの建築界に大きな影響与えた。またこのパビリオン自体一戸建て構想したものではなく、もとは彼が1922年発表した集合住宅「イムープルヴィラ」の一単位分であり、これと同じものを多数横に並べて四段積み、一街区分のアパート構成する計画だった。このパビリオンは、彼のより大きな都市計画の中の、アパートの一単位分だけが実現したのであるコンスタンチン・メーリニコフにより設計されたソビエト・パビリオンは、アレクサンドル・ロトチェンコ設計した労働者クラブ」と並びロシア構成主義建築代表例一つとなった。メーリニコフのソビエト・パビリオンはこの博覧会グランプリ獲得した。その他、ソビエト勢ではヴァディム・メラー(Vadym Meller)の舞台美術金メダル輝きヴフテマスVkhutemas国立高美術工芸工房)に属す学生作品いくつかの賞を受ける躍進見せた

※この「エスプリ・ヌーヴォー館とソビエト館」の解説は、「パリ万国博覧会 (1925年)」の解説の一部です。
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