江沢民
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外交政策
アメリカ・ヨーロッパ諸国
江沢民は天安門事件で孤立した中華人民共和国の外交の改善に貢献したとして、「中国を変えた男」と肯定的に評価されている。とくに、大国間の協調を重視してアメリカ合衆国・ロシア連邦との関係においては緊密な関係を築いた。1997年10月にアメリカを訪問した際、江沢民とアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは、両国関係を初めて「戦略的建設的パートナー」と表現して米中協調の枠組み作りを本格化させ、当時のクリントン政権には「チャイナゲート」と呼ばれる中国政府から選挙資金を得た疑惑からの批判もあった[55]。しかし、1999年のコソボ紛争では中国を訪問して江沢民と友好関係にあったユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ政権をNATOは攻撃して中国大使館への誤爆も起きたために米中関係は緊張関係になり[56][57][58]、2000年に起きたブルドーザー革命の際はミロシェヴィッチの家族はその財産を中国に持ち込んで亡命も試みていた[59][60][61]。コソボ紛争でNATOに共に反発して、第二次チェチェン紛争でも欧米と対立を深めていたロシアのボリス・エリツィン大統領に接近し[62]、その後任のウラジーミル・プーチン大統領とは中露善隣友好協力条約を締結して中露関係を強化し、ロシアと同じ隣国でソビエト連邦の崩壊で独立したばかりの中央アジアも引き入れた上海ファイブを2001年6月15日に上海協力機構に改組してNATOに対抗した[63]。
クリントンの後任に中国を「戦略的競争相手」と位置付けるジョージ・W・ブッシュが大統領に就任した直後に南シナ海で海南島事件が起きていたこともあって、中国とアメリカの亀裂は決定的とする見方もあったが、同年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生すると、江はこの事件を契機にアメリカとの協調関係の再構築に乗り出した。中国は真っ先にアメリカに対して哀悼の意を表するとともにテロリズムに共同で立ち向かうことを宣言し、翌月にAPEC(2001年APEC上海会議)を上海で主催した江は911テロ後の初外遊[64]で中国を訪問したブッシュが唱える「テロとの戦い」を支持する各国との首脳共同声明をまとめ[65][66][66]、アメリカ軍によるタリバーン打倒後のアフガニスタン復興に1億5000万ドルもの資金を援助し、対テロ戦争を支える国際連合決議にも賛成して有志連合を支持した[67]。また、ブッシュの父で米中連絡事務所所長を務めた元大統領のジョージ・H・W・ブッシュと交流し[68]、ブッシュの叔父で米中商工会議所議長を務めたプレスコット・ブッシュ・ジュニアと江沢民は長年の友人であるなどブッシュ家とは密接な関係を持ち[69]、息子の江綿恒はブッシュの弟のニール・ブッシュと中国で会社を共同経営していた[70][71]。これらの中国の動向を受けて、ブッシュは中国を「責任ある利害共有者」とし、中華人民共和国の世界貿易機関加盟を受け入れ、台湾独立についても支持しないことを明確にするなど、中国とアメリカの接近が深まった。ブッシュ政権ではイレーン・チャオ労働長官の父親は江と同級生でもあり、財務長官を務めたヘンリー・ポールソンと江は親交があった。一方で、悪の枢軸発言やイラク武装解除問題でイラクへの軍事攻撃に江は反対するなど、一極化するアメリカの単独行動主義は牽制していた[72][73]。
ベトナム
中越戦争以来初めて中国を訪問したベトナムのグエン・ヴァン・リン書記長らと会談して、国境の非武装化や捕虜交換などの国交正常化を進めることで合意した[74]。中越戦争を「中国の侵略行為」として謝罪を求めるベトナムに対しては、「戦争の原因はベトナムのカンボジア侵攻」として、謝罪はしていない[75]。2002年2月末にベトナムを訪問した際、ベトナム側の首脳に対し、「もう過去のことは忘れよう」「(中越)両国は未来志向であるべきだ」と主張し、ベトナムで使用されている教科書から中越戦争の記述を削除するよう要求した[75][76]。
韓国
朝鮮戦争以来敵対し、台湾と国交を持っていたアジア最後の国である大韓民国と1992年8月に国交正常化した[77]。同年9月29日に当時の盧泰愚大統領は中国を訪問した。盧泰愚の前任の全斗煥大統領も日本政府に対して中国の胡耀邦に韓国の国家承認を働きかけるよう要請し[78][79]、全斗煥の前任の朴正煕大統領も日本の財界の後押しで鄧小平と接触[80]するも何れも国交樹立には成功せず、中国が江沢民政権となってから中韓は急速に接近した。その後任の金泳三大統領も1994年に中国を訪問して江沢民と会談し、1995年11月13日には江沢民は中国の指導者としては初めて韓国を訪問した。1998年には金大中大統領は江沢民と「中韓協力パートナーシップ」構築で合意した[81]。
1990年3月、江沢民は北朝鮮を訪問した際に金日成国家主席に対して韓国との通商代表部設置を遅らせることは難しいと述べ[82]、1991年10月に金日成は生涯最後の外遊で訪中して中韓国交正常化の見送りを要請するも江沢民ら中国指導部は北朝鮮核問題の解決を求めた[82]。1992年7月に外交部長である銭其琛が訪朝して江沢民の中韓国交正常化の意向を金日成に伝えた際は恒例の宴会も開かれず、中朝関係は冷却化した[82]。2000年に鄧小平と犬猿の仲[83]だったとされる金正日が朝鮮労働党総書記就任後の初外遊で17年ぶりに訪中した際はその後に行われた初の南北首脳会談を調整したとされ[84]、南北等距離外交を基本とした。また、2001年に金正日が再び訪中した際はこれに同行した金正日の長男の金正男は江沢民の長男である江綿恒と会談して中国の太子党と親密になったとされる[85]。
日本
天安門事件直後の1989年6月21日、日本政府は第3次円借款の見合わせを通告し、フランスなどもこれに応じた。7月の先進国首脳会議(アルシュ・サミット)でも中国の民主化弾圧を非難し、世界銀行の中国に対する新規融資の延期に同意する政治宣言が発表された。ただし、当時の日本の宇野宗佑首相はアルシュ・サミット前に対中制裁反対派および慎重派[86]の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相と会談し、サミットでは「中国を孤立させるべきではない」と主張[87][88]して宣言に盛り込ませたことで他の西側諸国と距離感が目立った。
1989年に六四天安門事件が起き、国民を制御するため今まで活用してきたマルクス主義、階級闘争、社会主義などのイデオロギーが通用しなくなったことを悟った江沢民は、国内政治の不満を逸らすべく、そして、マルクス主義、階級闘争、社会主義などの代替イデオロギーとして反日教育を利用し始めた[89]。1991年に江沢民は、「小学生、中学生から大学生まで、中国近代史、現代史および国情教育を行うべき」であり、「1840年のアヘン戦争以降の百年にわたり、中国人民が列強から陵辱を受けたことを、史実を挙げて説明」し、「五四運動以降、中国共産党が誕生し、各族人民を指導して土地革命戦争、抗日戦争、解放戦争を経験し、中華人民共和国を建国し、中国人民が立ち上がったこと」を教育するよう要求した[90]。これを受けて国家教育委員会は「小中学校の中国近代、現代史及び国情教育強化のための全体綱要」を作成し、歴史、地理、語文、思想政治を関連科目として指定し、各科目に対してそれぞれ近現代史、国情教育強化の指示を出した[90]。こうして実施された近現代史教育において、中国共産党は「日本は、日中戦争で独立存亡の危機に中国を直面させ、他方でその日中戦争の中から中国共産党が覇権を握っていく」という「『正しい歴史』に密接にかかわる必要不可欠なキャラクター」であり、日本政府は明治維新から終戦まで一貫して、資源が乏しい中で近代化を実現するため中国を侵略する計画を持ち、戦争は周到に計画されていたとする「戦争必然論」の立場を取るようになり、こうした思想が教科書にも貫かれ、1990年代に入り、こうした観点から近現代史教育が強化された[90]。江沢民は、「教育部門のみならず、思想宣伝部門、政治法律部門、全党、全社会も努力しなければならない」と述べており、1990年代以降、教科書のみならず、テレビ、新聞、映画などの全分野において、青少年に対して愛国主義教育が展開されるようになり、教科書に要求された内容を基礎とする報道、ドラマ、映画などの製作が求められ、教科書に要求された内容が報道、ドラマ、映画などのベースを提供するようになった[90]。江沢民は、自分の父親がかつての大日本帝国の傀儡政権である汪兆銘政権の官吏だったことを隠すために、「自分がいかに反日か」を示そうと、愛国主義教育基地として「抗日戦争記念の地」を選び、1994年に中国共産党中央委員会によって「愛国主義教育実施綱要」が制定され[4]、抗日戦争記念館への見学や、教科書に南京大虐殺、三光作戦、万人坑、731部隊などに関する記載が大幅に増加され、それまで日本軍の侵略に関する記載は小学校では10%、中学校では20%であったが、中学校教科書『中学歴史第四冊』(2001年)では総161頁のうち、41頁が該当しており、大幅に追加されている[89]。そして、「抗日戦争勝利50周年」に当たる1995年から、徹底した反日教育を推進し[4]、1995年9月3日に北京で開催された「首都各界による抗日戦争記念ならびに世界反ファシスト戦争勝利50周年大会」で江は演説し、日中戦争の被害者数をそれまでの軍民死亡2100万(抗日勝利40周年の1985年に中国共産党が発表した数値)から死傷者数を含めた上で3500万とした[91]。
江沢民は首相退任後の1990年5月7日に宇野が中国を訪問した際にこの事への感謝を述べた[87]。円借款自体は1991年8月に宇野の後任である海部俊樹首相の中国訪問によって再開されたものの、中国には天安門事件のイメージを国際社会から払拭する必要があった。
そのために江沢民は1992年4月6日に田中角栄への見舞いも兼ねて訪日した際に天皇を中国に招待し、同年10月に明仁天皇・美智子皇后は中国を訪問することになる[92]。天皇訪中は日中関係史で歴史的な出来事だったが、1988年から10年間外交部長(外務大臣)として、1993年から2003年まで国務院副総理として15年間、江沢民時代の外交を支えた銭其琛は回顧録で天皇訪中は西側諸国の対中制裁の突破口という側面(用日)もあったと明かしている[93]。
江沢民は、歴史問題を対日外交圧力の重要カードと位置付けており、『江沢民文選』によれば、1998年8月に外国に駐在する特命全権大使など外交当局者を集めた会議で、「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」「日本の軍国主義者は極めて残忍で、(戦時中の)中国の死傷者は3500万人にも上った。戦後も日本の軍国主義はまだ徹底的に清算されていない。軍国主義思想で頭が一杯の連中はなお存在している。我々はずっと警戒しなければならない」と述べ、日本の軍国主義はなお健在との認識を示した[94]。また台湾問題については、「日本は台湾を自らの『不沈空母』と見なしている」「日本に対しては、台湾問題をとことん言い続けるとともに、歴史問題を終始強調し、しかも永遠に言い続けなければならない」と指示を出した[94]。江沢民の対日政策によって中国では反日感情が高まり、同時に日本でも嫌中感情が高まった。
1998年11月、江沢民は中国の国家元首として初めて日本を訪れた[95]。この訪日で江は「日本政府による歴史教育が不十分だから、(国民の)不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と発言して、日本の歴史教育を激しく非難した。当時の日本の小渕恵三首相に韓国大統領の金大中が10月に訪日した際の日韓共同宣言の「痛切な反省と心からのお詫び」と同様の記述を日中共同宣言に明記するよう要求し、その執拗さから日本国民の反発を買った[96][97]。訪日中の11月26日に行われた明仁天皇主催の豊明殿での宮中晩餐会では、答礼のスピーチについて中華人民共和国外交部は歴史問題に踏み込まない草稿を準備していたが、晩餐会直前に江沢民の意向で内容が差し替えられ、晩餐会の席上で過去の歴史について遠慮のない日本批判を行った[98]。また、江の回顧録では、この宮中晩餐会で、同席した三笠宮崇仁親王から「今に至るまでなお深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」との発言があったとしている[99][100]。なお、江は中国共産党の礼服である黒い中山服(人民服)を着用して宮中晩餐会に出席したが、これが非礼ではないかとの批判もあった[101]。しかし、1980年に中国の首相として初めて国賓として訪日した華国鋒も黒い中山服を着て、当時の昭和天皇主催の宮中晩餐会に出席している[102][103]。
また、この訪日の際に早稲田大学からの名誉博士号の授与を拒否している。これは、同大学の創立者である大隈重信が、首相時代に対華21か条要求を出したためともされている[104]。11月28日に行われた大隈講堂での講演中には出席者が「中国の核軍拡反対」と叫んで警官に取り押さえられる騒ぎも起きた[105]。
一方で魯迅が留学していた仙台市を訪問した際には、魯迅が学んだ東北大学の教室での記念撮影や日中友好を願った直筆の漢詩を送った他、夕食会では仙台弁を交えた挨拶をするなど終始友好的なムードが保たれた[106][107][108]。
この訪日に先立つ1997年10月、江沢民はアメリカ合衆国を訪問。ハワイの真珠湾へ立ち寄って戦艦アリゾナ記念館に献花を行い[109]、ここで日本の中国(当時の中国大陸は中華民国の中国国民党政府の統治下であった)侵略と真珠湾攻撃を批判した。これについては、「歴史問題を通じてのアメリカへの接近、ひいては日米離間を狙った演説だった」とする見方[110][111]もある。
日本の首相による靖国神社参拝には断固反対の立場をとった[112]。江沢民と後任の胡錦濤は、靖国神社を毎年参拝した小泉純一郎首相とは極力首脳会談を行わなかった。
注釈
- ^ 鄧小平は1987年に政治局常務委員を辞任したが、軍の統帥権者である党中央軍事委員会主席の地位には留まった。さらに、第13期1中全会において、重要問題については引き続き鄧小平の指導を受けるという決議がなされた(この決議は秘密とされていたが、第二次天安門事件直前の1989年5月にソビエト連邦最高会議議長兼共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにした)。鄧小平は1989年に党中央軍事委員会主席の地位を江沢民に譲り、無位無官の身となったが、第13期1中全会の決議により、事実上の最高実力者として江沢民政権に影響力を発揮していた。なお、1994年9月の第14期4中全会において、中央指導体制の第2世代(鄧小平を中心とする世代)から第3世代(江沢民を中心とする世代)への移行が完了したとする公式声明が発表され、これにより鄧小平は政治指導から全て退くこととなった。
- ^ 第16回党大会に先立つ2001年、江が中国共産党創立80周年を記念する講話で「三つの代表」理論を初めて打ち出した際、保守派のイデオローグであった鄧力群らは「階級性こそ党の基本的属性であり、私営企業主の入党は党規約違反である」と批判し、江を「党大会や中央委員会に諮らず重大問題を個人で発表したことは、重大な党規約違反である」と弾劾した。
出典
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- ^ イダ・ギター工房
- ^ President Jiang Zemin of China
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- ^ 領導人的“文藝範”:江澤民会楽器 胡錦涛舞跳得好
- ^ (中国語)写詩作序 江澤民十八大後首「露面」(2012年12月23日)
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