神話での記述
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『古事記』では、神代七代の二番目、国之常立神の次に化生したとしている。国之常立神と同じく独神であり、すぐに身を隠したとある。 『日本書紀』本文では、天地開闢の後、国常立尊、国狭槌尊の次の三番目に豊斟渟尊が化生したとしており、これらの三柱の神は男神であると記している。 第一の一書では、国常立尊・国狭槌尊の次の三番目に化生した神を豊国主尊(とよくにぬしのみこと)とし、別名がして豊組野尊(とよくむののみこと)、豊香節野尊(とよかぶののみこと)、浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと)、豊国野尊(とよくにののみこと)、豊齧野尊(とよかぶののみこと)、葉木国野尊(はこくにののみこと)、見野尊(みののみこと)であると記している。「豊」がつく名前が多く、豊雲野神・豊斟渟尊と同一神格と考えられている。第二から第六の一書には、同一神とみられる神名は登場しない。 『古事記』・『日本書紀』とも、これ以降、豊雲野神が神話に登場することはない。
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神話での記述
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天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。
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神話での記述
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兄の海幸彦(火照命)は、海で魚などを猟って暮していた。ある日、山で狩りなどをして暮らしていた弟の山幸彦(火遠理命)と互いの道具の交換しようと提案した。山幸彦は三度断ったが、少しの間だけ交換することにした。しかし山幸彦はその釣針を海の中になくしてしまい、海幸彦はそれを決して許さなかった。その後、海神から復讐の方法と呪具を与えられて帰ってきた山幸彦によって海幸彦は苦しめられ、最終的に服従した。 此等は、隼人または熊襲の平定と服従を元に説く神話であるとされる。 詳細は、山幸彦と海幸彦を参照のこと。
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神話での記述
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岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、アマテラスを引きずり出して(『日本書紀』の一書や『古語拾遺』では「引き開けて」)、それにより世界に明るさが戻った。 天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石門別神を副えたとあり、その後伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座したとしている。
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神話での記述
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邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た。 邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売命に、その名を明らかにしたのだから、猿田毘古神を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売命は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田毘古神は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。 猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れる。この際、海に沈んでいる時に「底度久御魂」(そこどくみたま)、猿田毘古神が吐いた息の泡が昇る時に「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)、泡が水面で弾ける時に「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)という三柱の神が生まれた。この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(三重県松阪市大阿坂と小阿坂に2社存在する)に現在は鎮座されている。 『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。しかし、大田命を猿田彦の子孫と主張し始めたのは鎌倉時代に成立した『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』や『倭姫命世記』であり、延暦期成立と見られる『皇太神宮儀式帳』や後三条朝までの編年記事が見える『大神宮諸雑事記』では、宇治土公は単に大田命の子孫であるとだけ主張しており、大田命の遠祖に猿田彦を架上したものと指摘される。「児島系図」では久斯比賀多命三世孫の久斯気主命を祖とし、石部公や狛人部と同族であるとされており、これに従えば三輪氏族となる。 椿大神社(三重県鈴鹿市)の社伝によると伊勢の阿邪訶にて溺れた際に命を落とし、後に同神社の高山土公神御陵に葬られたとされており、これが猿田彦命の御陵とされている。 また、二見興玉神社(三重県伊勢市二見町)の由緒書によれば同神社の境内の海中に位置する興玉神石は天孫降臨の際に猿田彦が降り立たれた神跡であると伝えられている。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 05:13 UTC 版)
葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。 『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。 高皇産霊神の孫とする説もあるが、これは『日本書紀』の原文を読み違えたものとされる。原文には「一書曰、天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子栲幡千千姬萬幡姬命・亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命、而生兒天火明命、次生天津彦根火瓊瓊杵根尊。其天火明命兒天香山、是尾張連等遠祖也。」とある。「兒(児:子と同じ意味)」で区切って読んだと思われるが、一見して「姬兒」が名前の一部であることが判る。「火之戸幡姬兒千千姬命」で一個人の名前であり、高皇産靈尊の子の火之戸幡姬の子の千千姬命とは読まない。[独自研究?]
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:19 UTC 版)
詳細は「天孫降臨」を参照 ※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』本文に拠る。 瓊瓊杵尊は天照大神の子である天忍穂耳尊と高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命との間に天で生まれた。高皇産霊尊はこの孫を特にかわいがり葦原中国の主にしたいと考えた。そこで天穂日命や天稚彦が派遣され経津主神と武甕槌神によって葦原中国は平定された(葦原中国平定を参照)。高皇産霊尊は皇孫(すめみま)たる瓊瓊杵尊を真床追衾(まとこおふすま)で覆い地上に降ろした。これを天孫降臨と呼ぶ。皇孫は天盤座から天八重雲を押し分けて神聖な道を進み日向の襲(そ)の高千穗峯に天降った。さらに良い国を探し求めて吾田の長屋の笠狭岬に至ると事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗る者が現れた。「国はあるか」と尋ねてみると「ここにあります、思いのままにしてください」と返されたのでそのまま留まることにした。 国には一人の美人がいた。皇孫が「おまえは誰の子か」と尋ねると「カヤノヒメを大山祇神が娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名を木花開耶姫という。彼女を気に入った皇孫は一夜を共にした。すると姫は身ごもった。しかし皇孫は「天神でも一夜で孕ませることはできない。それは私の子ではない」と暴言を吐いた。怒った鹿葦津姫は出口のない小屋に籠った上で「私の子が天孫(あめみま)の子であれば傷つかない、そうでなければ焼け死ぬ!」と誓約(うけい)をし小屋に火をつけさせた。三人の子供が無事に生まれてきたので天孫の子であることが証明された。兄の火闌降命は成長して海幸彦に、弟の彦火火出見尊は山幸彦となった。しばらくして瓊瓊杵尊は崩御し、可愛山陵(えのみささぎ)に葬られた。 一書や『古事記』でも大筋は同じだが細部が異なる。『古事記』では高御産巣日神ではなく天照大御神の命令を受けた建御雷神と天鳥船神が大国主神から国譲りを受けて葦原中国の統治権を確保する。その後に天照大御神の命により邇邇藝命は葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたという。降臨の地については「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』のように国を探し求めることはなく高千穂に留まって大きな宮殿を立てる。一書や『古事記』では降臨の際に随伴した神々も記載されている。また事勝国勝長狭の代わりに猿田毘古神が現れ地上までの道案内をする。木花之佐久夜毘売との結婚の際にも共に嫁いできた姉の石長比売(いわながひめ)を追い返したために邇邇藝命とその子孫は神としての永遠の命を失ったという逸話がある。火中出産についても生まれてくる子供たちの内訳が『日本書紀』本文と一書、『古事記』間でそれぞれ異なる。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 08:08 UTC 版)
日本神話に最初に登場する綿津見神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)・伊邪那美命(伊弉冉尊・いざなみ)二神の間に生まれた。神名から海の主宰神と考えられているが、『記紀』においては伊邪那岐命は後に生まれた三貴子の一柱須佐之男命(素戔嗚尊・すさのお)に海を治めるよう命じている。 伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。この三神はオオワタツミとは別神であるとの説や、同神との説がある。この時、ソコツツノオノカミ(底筒之男神)、ナカツツノオノカミ(中筒之男神)、ウワツツノオノカミ(上筒之男神)の住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。 また、綿津見神三神の子の宇都志日金析命(穂高見命)が阿曇連(阿曇氏)の祖神であると記している。現在も末裔が宮司を務める志賀海神社は、安曇氏伝承の地である。また、穂高見命は穂高の峯に降臨したとの伝説があり、信濃にも安曇氏が進出している。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 01:12 UTC 版)
『古事記』によれば、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天津神たちに漂っていた大地を完成させることを命じられ、天沼矛を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で、渾沌とした大地をかき混ぜたところ、矛から滴り落ちたものが、積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。伊邪那岐・伊邪那美は淤能碁呂島で結婚し、大八島と神々を生んだ(国産み、神産み)。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 09:26 UTC 版)
岩戸隠れの際に八咫鏡を作った。ちなみに日前神宮・國懸神宮(和歌山市)には八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)がある。日像鏡は日前神宮の神体、日矛鏡は國懸神宮の神体となっている。 天孫降臨の際邇邇芸命(ににぎ)に附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、天宇受売命(あめのうずめ)、玉祖命(たまのおや)と共に五伴緒の一人として随伴した。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 21:51 UTC 版)
日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。 古事記には、八尺瓊勾玉(緒に通した勾玉)の後ろに、さらに『五百津之美須麻流之珠』(やさかにのまがたまのいほつのみすまるのたま)という、数の多さを形容した語が付く。 尚、日本書紀神代で八尺瓊曲玉が言及される別の部分として、六段一書(あるふみ)第二で羽明玉という神が素戔嗚尊に、スサノヲが天照大神に会う(アマテラスとスサノオの誓約)前に「瑞八坂瓊之曲玉」を渡している。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 04:55 UTC 版)
古事記 『古事記』では黄泉の国の条に登場する。伊邪那岐命が、亡き妻の伊邪那美命を連れ戻そうと、死者の国である黄泉の国に赴くが、失敗して予母都色許売(よもつしこめ)や8柱の雷神、黄泉軍(よもついくさ)に追われる。地上との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓まで逃げてきた時に、そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけると、雷神と黄泉軍は撤退していった。 この功績により桃の実は、伊邪那岐命から「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」の神名を授けられる。そして、「汝、我を助けしが如く 葦原中津国に有らゆるうつくしき青人草の、苦しき瀬に落ちて 患(うれ)へ悩むとき これを助くべし」(お前が私を助けてくれたように、葦原の中津国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみの激流に落ち、悩み悲しみ苦しむことがあったときには、これを助けてやってくれ。)と命じられた。 日本書紀 『日本書紀』では神産みの第九の一書に登場する。『古事記』と同様に、イザナギ命は黄泉の国で8柱の雷公に追われる。その時、道端に桃の樹があり、その樹の下に隠れて桃の実を採って投げつけると、雷公は退走していった。これが、桃を用いて鬼を避ける由縁であると記されている。
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神話での記述
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神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間に生まれた。『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、4対8柱の神を生んだ。
※この「神話での記述」の解説は、「カヤノヒメ」の解説の一部です。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 01:54 UTC 版)
『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記する。他に苔牟須売神とも称される。 大山津見神(おおやまつみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)の姉。 木花之佐久夜毘売とともに天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。 『日本書紀』には、妊娠した木花開耶姫を磐長姫が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。 また『古事記』において大山津見神の娘で、須佐之男命の子の八島士奴美神と結婚する、木花知流比売(このはなちるひめ)は石長比売の別名であるとする説もある。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 16:32 UTC 版)
大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后の欝色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。敢国神社の社伝によると同神社より北東1.5Kmの所に位置する御墓山古墳は大彦命の御陵とする。敢国神社の鎮座する三重県伊賀市は大彦命の子孫である阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地とされる伝承も残されている。 武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。 また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。 吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社、吉備津彦神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。 丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子の彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。
※この「神話での記述」の解説は、「四道将軍」の解説の一部です。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:38 UTC 版)
『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとする(阿波岐原は江田神社のある宮崎市阿波岐原町に比定される)。これは神道の祝詞、祓詞にもある。 『日本書紀』本文では伊弉諾尊とイザナミ (伊弉冉尊・伊邪那美命)の間に産まれ天照大神・ツクヨミ(月読)・ヒルコ(蛭児)の次に当たる。 統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大御神は天(高天原)であるが、月読命は天、滄海原(あおのうなばら)または夜の食国(よるのおすくに)を、須佐之男命には夜の食国または海原または天下を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。須佐之男命は記述やエピソードが月読命や蛭児と被る部分がある。 『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大御神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大御神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対する。スサノオは疑いを解くために誓約(うけひ)を行った。 我の潔白が誓約によって証明されたとしたが、勝ったに任せてと次々と粗暴を行い、天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された(神逐)。 スサノオは大気都比売に食べ物を乞うが、オオゲツヒメが鼻や口や尻から食べ物を出すのを見て怒って殺した。オオゲツヒメの体の各部分から生じた穀物が五穀の起源となった。 出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降った建速須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売命と出会う。 スサノオは、クシナダヒメの姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、ヤマタノオロチを退治する。そしてヤマタノオロチの尾から出てきた草那藝之大刀(くさなぎのたち、紀・草薙剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっている)。その後、櫛から元に戻したクシナダヒメを妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。 そこで、 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁(古事記)夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐 菟磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻(日本書紀)やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを(読み:ふりがな)八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を と詠んだ。記紀で最初の歌であることから、我が国最初の和歌ともされる。 また、ここから「八雲」は出雲を象徴する言葉ともなった。「八雲立つ」は出雲に掛かる枕詞である。 クシナダヒメとの間に八島士奴美神が産まれ、その子孫が大国主神と解釈されてきた(『日本書紀』では大已貴命(おおあなむちのみこと)で『古事記』では大国主神は彼の6代後の子孫としている)。 また、神大市比売を娶って大年神と宇迦之御魂神を産んでいる。 『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書第4では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(いそたける)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後、八岐大蛇を退治した。 また続く一書第5では、木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子の五十猛命 、娘の大屋津姫命(おおやつひめ)、枛津姫命(つまつひめ) に命じて全国に植えさせたという。 大国主の神話において根の国のスサノオの元にやってきた葦原色許男神(あしはらしこを、後の大国主命)は、スサノオの娘である須世理比売(すせりひめ)と互いに一目惚れするが、スサノオは葦原色許男神に様々な試練を与える。葦原色許男神は須世理比売の助けを得ながらそれらを克服したので、スサノオは葦原色許男神に、須世理比売を妻とすることを認め、生大刀、生弓矢、天詔琴を譲り、大国主という名を贈った。
※この「神話での記述」の解説は、「スサノオ」の解説の一部です。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:37 UTC 版)
『日本書紀』によれば、鸕鶿草葺不合尊が誕生した産屋は全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。これにより、母親の豊玉姫が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあえず)」と名付けたという。 事績は『日本書紀』『古事記』ともになく、系譜上のみの存在である(後述)。
※この「神話での記述」の解説は、「ウガヤフキアエズ」の解説の一部です。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 08:40 UTC 版)
詳細は「海幸山幸」を参照 ※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』本文に拠る。 彦火火出見尊は天津彦彦火瓊瓊杵尊の第二子である。別名は火折尊。母は大山祇神の娘の木花開耶姫。火中出産の時に「熱を避りて居たるときに生り出ずる児」であるという。『日本書紀』に拠れば兄に火闌降命、弟に火明命がいる。ただし火明命は一書では兄とも伯父ともされ『古事記』には登場しない。 兄の火闌降命と弟の彦火火出見尊は生まれながらに各々釣針と弓矢という「幸」を持っていた。そこで火闌降命は海幸彦、彦火火出見尊は山幸彦と呼ばれるようになった(『古事記』での海幸彦は火照命という神であり、火闌降命は何の事績もない系譜だけの神となっている)。 あるとき海幸彦と山幸彦は試しに「幸」を交換してみたが、どちらもうまくいかなかった。そこで「幸」をお互いに返すことにしたが弟は兄の釣針を無くしてしまっていた。激怒した兄は弟がいくら代わりの釣針を作っても許さなかった。 困った山幸彦は塩土老翁と出会い海神の宮に送ってもらった。宮はとても立派なものだった。門の前の井戸のそばにあった湯津杜(ゆつかつら)の樹の下でさまよっていると一人の美人(おとめ)が扉を開けて出て来た。海神の娘の豊玉姫である。豊玉姫はただちに父母に相談して山幸彦を招き入れ海に来た理由を尋ねた。海神が大小の魚を集めて問いただすと赤女(鯛)がこのごろ口の中が痛いと言っているので、その口を探すと失った釣針が見つかった。しかし海神は釣針をすぐには山幸彦に渡さず、豊玉姫を娶らせて海に留めた。 山幸彦が海の宮に住んで三年が経った。そこは安らかで楽しかったが故郷が懐かしく、たまにひどくため息をつくことがあった。豊玉姫はそれを聞いて父に「もうかわいそうなので返してあげましょう」と語った。海神は山幸彦に釣針を渡して身を守るための呪文と玉を授けた。帰る時になって豊玉姫は自分が妊娠していることを告げ、産屋を建てて待っているように言った。山幸彦は地上の本宮(もとのみや)に帰り海神の教えの通りに海幸彦を征した。海幸彦は吾田君の小橋などの隼人の祖とされる。 豊玉姫は妹の玉依姫を連れて約束通りに陸にやってきた。産屋にこもった豊玉姫は絶対に中を覗かないよう言った。しかし我慢できない山幸彦がこっそり覗くと豊玉姫は龍に姿を変えていた(『古事記』では八尋和邇)。姫はのぞき見られたことを恥じて海に去った。遺された子の名を彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と言う。久しくして山幸彦こと彦火火出見尊は崩じ、日向の高屋山上陵に葬られた。『古事記』では高千穂宮に580年居住し、高千穂山の西に葬られたとする。 『日本書紀』の一書によれば、豊玉姫は鸕鶿草葺不合尊を養うために自らの妹の玉依姫を派遣したという。『先代旧事本紀』によれば、火折尊と玉依姫の間には武位起命がうまれたというが、記紀にはこの記載はなく、武位起命を玉依姫の甥とする系図もある。なお、玉依姫はのちに自らの甥にあたる鸕鶿草葺不合尊の妃となり、神武天皇(初代天皇)などを産んでいる(後述)。
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神話での記述
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神産みの段でイザナギとイザナミの間に産まれた神である。『古事記』の葦原中国平定の段では、天鳥船神が建御雷神の副使として葦原中国に派遣され、事代主神の意見をきくために使者として遣わされた。しかし『日本書紀』の同段では天鳥船神は登場せず、事代主神に派遣されたのも稲背脛という別の者になっている。稲背脛は「熊野諸手船、またの名を天[合+鳥]船」という船に乗っていったというが、『古事記』では天鳥船神が使者となっている。また熊野諸手船は美保神社の諸手船神事の元である。 これとは別に、『日本書紀』の神産みの段本文で、イザナギ・イザナミが産んだ蛭児を天磐櫲樟船(あめのいわくすふね。一書では鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね))に乗せて流したとの記述があるが、『古事記』では蛭子が乗って行ったのは鳥之石楠船神ではなく葦船(あしぶね)である。
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神話での記述
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詳細は「アマテラスとスサノオの誓約」および「葦原中国平定」を参照 ※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』本文に拠る。 天忍穗耳尊は素戔嗚尊が天で自身の清い心を示すために生んだ五皇子の長男である。『日本書紀』神代紀第六段によると素戔嗚尊は姉の天照大神の前で「自分の心が清らかならば男神が生まれ、そうでなければ女神が生まれる」と誓約(うけい)を行ったという。そして姉から借り受けた勾玉をカリカリと噛んで掃き出し五皇子を生んだ。誓約に勝った素戔嗚尊の勝ち名乗りが「正哉吾勝」「勝速日」と考えられ最初に生まれた天忍穗耳尊の名前の一部となっている。天照大神も同時に素戔嗚尊から剣を受け取って女神を生んでおり、これが宗像三神である。誓約が終わったあと天照大神と素戔嗚尊は剣と勾玉を返すという形でお互いに生んだ子を取り替えた。そのため天忍穗耳尊たちは勾玉の持ち主である天照大神の子とされている。『日本書紀』の一書や『古事記』『先代旧事本紀』などでは剣と勾玉の交換の有無、神を生む所作、神が生まれた順番などで細かな違いがある。一貫しているのは素戔嗚尊が天忍穗耳尊ら男神を生み、天照大神がひきとって自分の子にしたということである。 天忍穗耳尊は高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命との間に瓊瓊杵尊をもうけた。高皇産霊尊がこの孫を葦原中国の主にしようと画策するのが『日本書紀』神代紀第九段の内容である。以降の天忍穗耳尊の事績は無く、系譜上のみの神となっている。第一の一書や『古事記』だと葦原中国平定は天照大神が天忍穗耳尊を降臨させるために行われ、実際に天忍穗耳尊が天降ろうとする場面がある。しかし下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。使者の神達によって大国主神から国譲りがされると再び天忍穗耳尊に降臨の命が下る。天忍穗耳尊はその間に生まれた息子の瓊瓊杵尊に行かせるようにと進言し、瓊瓊杵尊が天降ることになる(天孫降臨)。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:53 UTC 版)
『日本書紀』一書では、アマテラスとスサノオの誓約の前、スサノオが高天原に昇ってくるのをアメノウズメが見つけ、日神(アマテラス)に報告した。 岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河の川原に集まって会議をした。思金神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。 『古事記』では次のように記述されている。「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」つまり、アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を女陰まで押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力男神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。『日本書紀』も似た記述であるが、胸乳の記述は無く、女陰については「火処(ほところ)焼き」と記され、神々の反応は記されていない。 天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神(=猿田毘古)が行く手を阻んだ。アメノウズメは天照大御神と高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは『日本書紀』では次のように記述されている。「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら(猿田毘古に)向かって言ったとある。その後、名を問い質すと、その神は国津神の猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。 アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一柱としてニニギに随伴して天降りした。アメノウズメは猿田毘古神の名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説には猿田毘古神の妻となったとされる。 アメノウズメは猿田毘古神を送って日向国(または志摩国)に帰った後、大小の魚を集めて天孫(邇邇芸命)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けている。アメノウズメの功績により、代々の天皇は志摩国から新鮮な海産物が献上される時は、猿女君に与える。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 09:45 UTC 版)
『古事記』では、神産みにおいて伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれた。その後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八柱の神を生んでいる。 天之狭土神・国之狭土神 天之狭霧神・国之狭霧神 天之闇戸神・国之闇戸神 大戸惑子神・大戸惑女神 『日本書紀』では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。 天之狭霧神の娘の遠津待根神は、大国主神の8世孫の天日腹大科度美神との間に遠津山岬多良斯神を産んでいる。 オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。八俣遠呂智退治において、須佐之男命(すさのを)の妻となる櫛名田比売(くしなだひめ)の父母、足名椎・手名椎(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っている。 その後、スサノオの系譜において、オホヤマツミ神の娘である神大市比売神(かむおほいちひめ)との間に大年神と宇迦之御魂神(うかのみたま)をもうけていると記している。また、クシナダヒメとの間の子、八島士奴美神(やしまじぬみ)は、オオヤマツミの娘の木花知流比売(このはなちるひめ)と結婚し、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬ)を生んでいる。フハノモヂクヌスヌの子孫が大国主神である。と 天孫降臨の後、邇邇芸命はオオヤマツミの娘である木花之佐久夜毘売と出逢い、オオヤマツミはコノハナノサクヤビメとその姉の石長比売を差し出した。ニニギが容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 13:52 UTC 版)
『古事記』では伊邪那美命(いざなみ)から生まれた和久産巣日神(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。 伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。 『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。 尚、『摂津国風土記』逸文に、 止与宇可乃売神は、一時的に摂津国稲倉山(所在不明)に居たことがあったと記されている。また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という(外宮境内社)。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 04:50 UTC 版)
『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。『古事記』でも出自や事跡についての記述が一切ない。神話中では「伊豆能売」とだけ書かれていて、「神」「命」などの神号はつけられていない。
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神話での記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 01:59 UTC 版)
『日本書紀』本文では、天地開闢の後国常立尊、国狭槌尊が登場し、次に豊斟渟尊化生したとしており、これらの三柱の神は男神であると記している。 第一、第二と第四の一書では、国常立尊の次に国狭槌尊が登場し、他の一書には同一神とみられる神名は登場しない。『日本書紀』にこれ以降、国狭槌尊が神話に登場することはない。
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