旅行ガイドブック
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日本を紹介したガイドブック
日本を海外に紹介する旅行ガイドブックとしては、1867年に出版されたN.B.デニスによる『中国・日本開港地案内[3]』が最初とされる[4][5]。その後、1873年(明治6年)に京都博覧会に来る外国人のために山本覚馬が書いた『京都・周辺地名所案内』が刊行され、さらに1874年(明治7年)にウィリアム・グリフィスの『横浜案内』、1875年(明治8年)にアーネスト・サトウの『日光案内』、1880年(明治13年)にW.E.L. キーリングの『旅行者のための横浜・東京案内[2][3]』と続く[4]。1881年には、アーネスト・サトウとホーズによる『旅行者のための中日本・北日本旅行案内』が横浜のケリー社より出版され、同書の第二版として『旅行者のために日本旅行案内[4]』が1884年(明治17年)にイギリスのジョン・マレー社から出版された[4]。執筆者としてバジル・ホール・チェンバレンらを擁し、小泉八雲や、『日本アルプスの登山と探検』を記し日本アルプスをヨーロッパに紹介したウォルター・ウェストンの寄稿がなされ現在では貴重な文献となっている。同書はその後30年間で9版を重ねた[4]。
定番とされたマレー社の旅行案内が陳腐化しつつあった1914年(大正3年)前後に、新しい英文のガイドブックが相次いで登場した。アメリカ人のフィリップ・テリー著の『テリーの日本帝国案内』は外国人の目線で興味深いものをピックアップした点に特徴があり、データの正確性に難点があるものの入手が容易なガイドブックとして1933年(昭和8年)まで幾度も改訂版が出版された[6]。また、ジャパン・ツーリスト・ビューローが刊行した『日本ポケットガイド』は日本に着いてからの移動費や宿泊費など実用性を重視した。
同時期に発刊された鉄道院作成の『東アジア旅行案内[注 4](An Official Guide to Eastern Asia:Trans-continental Connections between Europe and Asia)』は「満州・朝鮮」(1913年(大正2年))、「南西日本」(1913年(大正2年))、「北東日本」(1914年(大正3年))、「中国」(1915年(大正4年))、「東インド」(1917年(大正6年))の全5巻からなり、観光客のみならず海外からの貿易や投資の誘致を目的として作成されたガイドブックである[6]。1933年(昭和8年)には日本編だけを一冊にまとめた『日本旅行案内(An Official Guide to Japan)』も出版されている。8年の歳月と莫大な資金が用いられた『東アジア旅行案内』はベデカーに準拠した書式を採用し、優れた写真や地図、綿密なデータを掲載した貴重な東アジア資料としてタイム誌などから高い評価を受けた[6]。太平洋戦争後には日本交通公社が出版を引き継ぎ、スイスのナーゼル社より出版権譲渡の要請もあった。
注釈
- ^ ベデカーの『ライン川案内』は何回か改訂版がでており、どれを最初にするかでマレーとベデカーどちらが最初だったか判断が分かれている。マレー側はベデカーのライン川案内はマレーのガイドブック形式の盗用と批判しているが、マレーとベデカー両方を近代旅行ガイドブックの始祖とすることがほとんどである。
- ^ 江戸時代末期に日本を訪れたアーネスト・サトウは道中記のことを日本の『マレー』と表している。『一外交官の見た明治維新』(上・下)岩波文庫
- ^ 後に博文館に編集が変わる
- ^ 公式の邦語名称は無い。他に『鉄道院版英文東亜交通案内』、『公認東亜案内』などの表記例がある。
- ^ 第一次世界大戦後に改訂されたドイツ語版「スイス案内」には、広告が20ページ掲載された。しかし、後に再び広告非掲載の方針に戻った。
- ^ 有料となった1920年以降、広告非掲載化
- ^ 1966年、パリで人気のあったルレー・デ・ポルクロールのシェフだったアラン・ジックが自殺。ミシュランの評価を気にしたのが原因と噂された。
- ^ 天才フランス料理人ともてはやされたベルナール・ロワゾーは、2003年に自殺。自殺時期がガイドブックの改訂時期と重なったため、ミシュランなどのガイドブックの評価を気にしたのではないかと噂された。しかし真相は不明。
- ^ ミシュランの評価を下げられたことで、ミシュランへの掲載がなくなってしまった例もある。ミシュランから三ツ星を与えられていたマキシム(Maxim's)は1978年版から6つの店について評価の掲載がなくなった。これに対してマキシム側は「当方はレストランではなく劇場。従ってミシュランは正しい」とコメントした。ミシュランが三ツ星から二ツ星への降格を打診したところ、マキシムがレストランとしての掲載を拒否したためと言われる。
- ^ ニュルンベルク裁判の証言で明らかになった。
出典
- ^ 阿部猛『起源の日本史 近現代篇』同成社
- ^ 赤井 2016, pp. 117–126.
- ^ [1]
- ^ a b c d 長坂契那「明治初期における日本初の外国人向け旅行ガイドブック」『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要』第69号、慶應義塾大学大学院社会学研究科、2010年、101-115頁、ISSN 0912456X、NAID 120002791529。
- ^ 住谷裕文「「知」の収奪 : 世界初の英文日本ガイドブック(1)」『大阪教育大学紀要 1 人文科学』第57巻第2号、大阪教育大学、2009年2月、17-38頁、ISSN 03893448、NAID 120002108992。
- ^ a b c 赤井 2016, pp. 126–132.
- ^ 日刊ゲンダイ 2008年(平成20年)11月23日付記事「ミシュラン格付けに大波紋」による。
- ^ レイモン・カルチェ『全史第二次世界大戦実録1』小学館
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- 2 旅行ガイドブックの概要
- 3 日本を紹介したガイドブック
- 4 旅行ガイドブックの正確性・客観性
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