函普
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函普(かんぷ)は、女真完顔部の先祖。金の始祖[1]。懿憲景元皇帝[1]。
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- ^ 田中俊明『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、386-387頁。"高句麗は、高句驪とも表記されることがある。『馬』扁がつくのは、漢人の異民族蔑視によるもので、音は同じである。句麗・句驪という表記もみられるが、別の実体を指すのではなく、単なる省略形であるとすべきである。時代が降ると、高麗、という表記が一般的になる。隋・唐代の史書などはみな高麗である。その初見は、『中原高句麗碑』の『高麗大王』である。同碑の建立年代については、五世紀前半説と後半説があるが、およそ五世紀として問題なかろう。中国からの冊號が、高句麗王ではなく高麗王として記録されるのは、四九四年の雲(文咨明王)に対する冊封が最初である。李殿福は、高句麗から高麗への変化は、意識的な『改名』の結果であるとするが、果たして改名であるのかどうかは決め手がなく、省略しそれが定着していったとみることも可能である。"。
- ^ 高麗遣上部大相可婁等進調。 — 日本書紀、天智紀10年正月丁末條
- ^ 武藝忝當列國濫惣諸蕃,復高麗之舊居,有扶餘之遺俗。 — 続日本紀、神亀五年正月甲寅条
- ^ 庚午。帝臨軒。高麗使楊承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。 — 続日本紀、巻二二
- ^ 黑水靺鞨居粛慎地,東瀕海,南接高麗,亦附於高麗。嘗以兵十五萬衆助高麗拒唐太宗,敗于安市。 — 金史、卷一、本紀第一 世紀
- ^ 吾遠祖兄弟三人,同出高麗。今大聖皇帝之祖入女直,吾祖留高麗,自高麗歸於遼。吾與皇帝皆三祖之後。 — 金史、巻六十六、列伝第四
- ^ 有合住者,亦稱始祖兄苗裔,但不知與胡十門相去幾從耳。 — 金史、巻六十六、列伝第四
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