「従高麗来」考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:10 UTC 版)
『松漠紀聞』は洪皓(中国語版)が女真から聞いた口承に基づくが、口承は様々な条件の制約のために偏差が生じる。したがって、函普の出自を明らかにするためには、実際の女真自身はどう考えていたのかを探らなければならない。女真自身による直接的な意見の方が口承よりも正確だからである。『金史』によると、阿骨打が女真文字を作成するにあたり、完顔希尹(中国語版)を任用した際に「既未有文字,亦未嘗有記録,故祖宗事皆不載。…宗翰好訪問女真老人,多得祖宗遺事。…詔書求訪祖宗遺事,以備国史,命勗与耶律迪越掌之。…采摭遺言旧事…自始祖以下十帝,綜為三巻。(文字も記録もなく、先祖の事績も記録されていない。…粘没喝は女真の老人を好んで訪問し、先祖の遺事を多く得た。金太宗即位後、国史を整備するために先祖の遺事を探し出すよう、完顔勗(中国語版)と耶律迪越をその責任者に任命した。完顔勗などが先祖の遺事を集めて『祖宗実録』を撰して、始祖以下十代の帝の事績を総合して三巻にまとめた)」と述べた。完顔勗などが編纂した『祖宗実録』は、実際の女真自身による意見であり、さらに、完顔勗などが検証・考証しており、最も歴史の事実に近い。元朝が『金史』編纂する際に参照した重要史料は、完顔勗などが編纂した『祖宗実録』であり、『金史』の成立は『松漠紀聞』などよりも後発であるが、函普の出自に関しては、最も歴史的事実に近いとみられる。 著者著書記述内容トクト 『金史』世紀・始祖函普紀 金之始祖諱函普,初從高麗來,年已六十餘矣。兄阿古廼好佛,留高麗不肯從,曰:「後世子孫必有能相聚者,吾不能去也。」獨與弟保活里俱。始祖居完顏部僕干水之涯,保活里居耶懶。其後胡十門以曷蘇館歸太祖,自言其祖兄弟三人相別而去,蓋自謂阿古廼之後。…始祖至完顔部,居久之,其部人嘗殺它族之人,由是兩族交惡,鬨鬭不能解。完顔部人謂始祖曰:「若能為部人解此怨,使兩族不相殺,部有賢女,年六十而未嫁,當以相配,仍為同部。」始祖曰:「諾。」廼自往諭之曰:「殺一人而鬭不解,損傷益多。曷若止誅首亂者一人,部内以物納償汝,可以無鬭而且獲利焉。」怨家從之。乃為約曰:「凡有殺傷人者,徴其家人口一、馬十偶、牸牛十、黄金六兩,與所殺傷之家,即兩解,不得私鬭。」曰:「謹如約。」女直之俗,殺人償馬牛三十自此始。既備償如約,部衆信服之,謝以青牛一,并許歸六十之婦。始祖乃以青牛為聘禮而納之,并得其貲産。後生二男,長曰烏魯,次曰斡魯,一女曰注思板,遂為完顔部人。 トクト 『金史』完顏胡十門伝 高永昌據東京,招曷蘇館人,衆畏高永昌兵強,且欲歸之。胡十門不肯從,召其族人謀曰:「吾遠祖兄弟三人,同出高麗。今大聖皇帝之祖入女直,吾祖留高麗,自高麗歸於遼。吾與皇帝皆三祖之後。皇帝受命即大位,遼之敗亡有征,吾豈能為永昌之臣哉!」 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。金史/卷1 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。金史/卷66#胡十門 二つの史料はそれぞれ、函普が「同出高麗」あるいは「従高麗来」、すなわち「高麗から来た」といい、「高麗人」であるとはいっていない。これは表現の問題ではなく、深い意図を含んでおり、高麗王朝には様々な種族、新羅人・高麗人・漢人・女真などが暮らしていたため、高麗王朝から来た新羅人、高麗王朝から来た高麗人、高麗王朝から来た漢人、高麗王朝から来た女真なのか断定することはできない。 貞祐四年(1216年)二月、金の重臣張行信(中国語版)は、王澮の「本朝紹高辛,黄帝之後(金朝は、黄帝の子孫である高辛より生まれた)」に関する議論に関して、「按『始祖実録』止称自高麗而来,未聞出于高辛(『祖宗実録』によれば、高麗から来たというだけで、高辛に由来したものではない)」と発言している。高辛は黄帝の子孫であるが、魏晋南北朝時代の「高句麗之支庶」出身の高雲は、顓頊の子孫を称しており、顓頊すなわち高陽氏は、黄帝の子孫である。張行信(中国語版)が「按『始祖実録』止称自高麗而来,未聞出于高辛(『祖宗実録』によれば、高麗から来たというだけで、高辛に由来したものではない)」と主張していることは、女真は自らを黄帝の子孫であることも、高句麗の子孫であることも認めていないことを意味する。 元人が『金史』を編纂した際に参照した完顔勗(中国語版)が編纂した『祖宗実録』は函普が高麗人ではないことを明らかにしている。『金史』高麗伝は、「唐初,有粟末,黒水両部,皆臣属于高麗(唐初、粟末と黒水の二族があり、共に高句麗に臣属していた)」と記し、『金史』高麗伝「賛」には、「金人本出之附于高麗者(金人は、もともと高麗に附いていた)」と記している。孟古托力は、この史料に登場する「金人」は、金代の女真の祖先である函普を指していることを指摘している。したがって、『金史』は、女真の先祖である函普は「もともと高麗に附いていた者」と主張している。『金史』『新唐書』『唐会要』によると、黒水靺鞨は、かつて高句麗に隷属し、後に唐に隷属し、渤海国建国後は渤海国に隷属していが、唐代の黒水靺鞨は、五代十国時代に女真と呼ばれるようになり、以後、黒水靺鞨を女真の先祖と認識することが多くなり、遼初には黒水靺鞨を指して女真と呼ぶ事例もある。 函普について、『松漠紀聞』『文献通考』は「新羅人」と記しているが、『金史』は「同出高麗」あるいは「従高麗来」と記している。唐が高句麗を滅した後、新羅は朝鮮半島の大部分を支配したが、918年、新羅の支配下にあった王建が高麗王朝を樹立した。935年、高麗王朝は新羅を滅し、朝鮮半島を統一する。新羅と高麗王朝は連続した二つの政権であるが、高麗王朝が興り、新羅が滅亡するまでの一時期、二つの政権が併存していた。したがって、『金史』の「同出高麗」あるいは「従高麗来」という記事と、『松漠紀聞』『文献通考』の「新羅人」という記事を整合的に解釈するならば、函普とその先祖は、新羅入国後、高麗王朝に移った。孟古托力の考証によると、函普が朝鮮半島を離れる時期は921年前後、楊茂盛の考証によると、函普が朝鮮半島を離れる時期は「926年に遼が渤海国を滅して2年から3年以内」といい、朝鮮半島を離れる以前の函普は高麗王朝で暮らしていた。したがって、「新羅人」と記している『松漠紀聞』『文献通考』よりも「同出高麗」あるいは「従高麗来」と記している『金史』の方が正確であることを示唆している。 宋または南宋末と元初の史料『三朝北盟会編(中国語版)』『建炎以来朝野雑記』『建炎以来繋年要録』『九朝編年備要』『続編両朝綱目備要』『大金国志』『文献通考』は、『松漠紀聞』の記事内容を引用し、函普を「新羅人」と記している。しかし、宋代の史料には『松漠紀聞』の記事を採用していないものがある。苗耀が著した『神麓記』は『松漠紀聞』とは異なり、「女真始祖浦(函普),出自新羅,奔至阿触胡(按出虎),無所帰,遂依完顔因而氏焉,六十未娶。是時,酋豪以強凌弱,無所制度,浦劈木為克,如文契約,教人挙債生息,勤于耕種者,遂致巨富。若遇盗窃鶏豚狗馬者,以桎梏拘械,用柳条笞撻外,賠償七倍,法令厳峻,果断不私。由是,遠近皆伏,号為神明。有隣寨鼻察異酋長,姓結徒姑丹,小名聖貨者,有室女,年四十余,尚未婚,遂以牛馬財用農作之具,嫁之于浦。後女真衆酋結盟,推為首領。」と記している。文中では、函普は「新羅から来た」となっており、「高麗から来た」とする『金史』とは異なるが、それ以外の函普に関する内容は、『神麓記』と『金史』は一致している。孟古托力や楊茂盛の考証によると、函普とその先祖は、新羅入国後、高麗王朝に移った女真である可能性が高く、苗耀が函普を「新羅人」と記さず、函普とその先祖が新羅で暮らしてたことを表現し、「新羅から来た」と記したことは見識があるともいえる。『金史』によると、函普は「六十歳」を過ぎた女性と結婚し、子供を儲けたとあるが、『神麓記』では、女性を「四十余歳」としており、子供を儲ける年齢は「六十歳」よりも「四十余歳」の方が現実的である。かかる事実は、『神麓記』が事実関係を慎重に扱っていることを示唆する。また、洪皓(中国語版)が得た函普に関する口承と一致しない情報を苗耀が得て、『松漠紀聞』と異なる記述をおこなった可能性もあり、『松漠紀聞』と『神麓記』を比較した場合、『神麓記』はより女真自身の言説に近いといえる。『神麓記』は、函普は「新羅から来た」となっており、「高麗から来た」とする『金史』とは異なるが、それ以外の函普に関する内容は、『神麓記』と『金史』は一致しており、その観点からも『金史』の正確性が窺える。
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