「徒弟の時代」とは? わかりやすく解説

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「徒弟の時代」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/10 07:21 UTC 版)

ミマール・スィナン」の記事における「「徒弟の時代」」の解説

この時期スィナンの建築は、オスマン建築伝統的なパターンなぞってはいたが、次第他の可能性探索し始めていた。その理由は、彼が軍歴重ねる中で、ヨーロッパ中東新たに占領したにあった建築上の重要性のある建物研究する機会得ていたからである。 1530年代半ばスィナン重要な建物設計する機会をはじめて得たシリアアレッポ建てたヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイ(フスルウィーヤ・モスク)とそれに付属する2棟マドラサである。ヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイは、スィナンの上役でアレッポスルタンであった人物のために、2つ大きな遠征合間を縫って1536年から1537年の冬の時期建設された。建築をひどく急いだ痕跡が、つくりの粗末さや、ぞんざいな装飾見て取れる帝室造営局の建築家として最初にうけた主要な依頼は、スレイマン1世の正后(英語版ロクセラーナヒュッレム・スルタン)のための、さほど大規模ではない複合的な居宅建設であったスィナン先人引いた線のとおりの設計をしなければならず、まったく創意のない、使える空間をただ伝統に従って並べただけの設計終始した。それでも妃の居宅アレッポモスクよりもうまく建てることができ、ある種気品漂わせた。もっとも、その後、この妃の居宅多く修繕苦しんだ1537年に南アルバニアヴロラ建てられ防御塔の設計スィナンの手よるものとされている。ヴロラスレイマン1世イタリア遠征時に陣を張った町であるが、そこにスィナン建てたムラディーエ・ジャーミィ(英語版)の防御塔は、テッサロニキ白塔に非常によく似ている1541年大提督バルバロス・ハイレッディン墓廟 (türbe) の建設取り掛かる。この墓廟建てられベシクタシュ地区は、イスタンブルヨーロッパ側の岸辺にあり、提督軍船がよく集結した場所であった奇妙なことに提督はその墓廟ではなく、その近くにあるイスケレ・モスク(下述)に埋葬された。そのとき以来現在まで、この墓廟存在はほとんど無視されていた。 スレイマン1世一人娘で、大宰相リュステム・パシャの妻、ミフリマーフ・スルタン(英語版)の委嘱により建設したウスキュダルのイスケレ・モスク(ミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (ウスキュダル)として知られる)は、マドラサ大学)、イマレット(厨房)、メクテブ(クルアーン学校)が付属する大規模な複合施設であり、広々とした高い中央の空間、すらりとしたミナレット尖塔)、単一ドーム天蓋両翼広がる3つの半ドーム3つのエクセドラ突き当たる構造幅広二重ポルチコといったいくつかの点で、スィナン円熟期様式特徴見て取ることができる。なお、イマレットは現存しない。建設完了1548年二重ポルチコ建設されたのはオスマン建築史上初めてではないが、これを機に公共モスクワズィール建てるモスクなどに流行する内側ポルチコ柱頭鍾乳石用いられ外側ポルチコ柱頭がシェヴロン・パターン(V字)(英語版)で造作されたこの二重ポルチコ見たミフリマーフとリュステム・パシャは、イスタンブル3つのモスクと、テキルダーリュステム・パシャ・モスクにも二重ポルチコ設置所望した。 1543年11月スィナン上述のイスケレ・モスクの建設始めたかりのころ、スィナン急遽スレイマン1世新しジャーミイ建設命じられた。そのジャーミイは、大帝の最もかわいがっていた息子墓廟付随する大規模なものであって大帝バルカン半島への何度目かの遠征から帰還したある日に突然、皇太子シェフザーデ・メフメトが齢22亡くなったという知らせ受け取ったであった。このシェフザーデ・ジャーミイ(英語版)には、それまでスィナンの建築作品のどれよりも大規模且つ野心的な試み盛り込まれることになった。そのため、建築史専門家からは、スィナン最初傑作であるとの評価なされている。 大きなドーム中心にするという構想取り憑かれスィナンは、ディヤルバクルのファティフ・パシャ・ジャーミイ(トルコ語版)や、ハスキョイ英語版)のピーリー・パシャ・ジャーミイのようなモスク建築設計仕事始めたスィナンペルシア遠征従軍した際に、上の2つモスク訪れた可能性高く遠征以後設計した中央ドームを持つモスクにおいては4つの同じ大きさ半ドーム中央ドーム付随する設計なされている。この上構造巨大ではあるが優美な八角になるように丸溝が彫られ自立する4本の支柱により支えられ、これらの支柱それぞれ横の壁に合体する四隅箇所では、屋根越える高さにそれぞれ尖塔延び建物をしっかり定位させる働きをする。この整然とした建築コンセプトは、既に伝統的なオスマン建築に何かを付け足したような設計とは異なっており、特筆される。セデフカル・メフメト・アーガー(英語版)は、のちに彼が設計したスルタン・アフメト・ジャーミイにおいて、その外見を少しでも軽く見せようとして、丸溝を彫った支柱コンセプト流用するしかしながらスィナンは同じ手を別のモスクもう一度使おうとはしなかった。

※この「「徒弟の時代」」の解説は、「ミマール・スィナン」の解説の一部です。
「「徒弟の時代」」を含む「ミマール・スィナン」の記事については、「ミマール・スィナン」の概要を参照ください。

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