「徒弟の時代」
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「ミマール・スィナン」の記事における「「徒弟の時代」」の解説
この時期のスィナンの建築は、オスマン建築の伝統的なパターンをなぞってはいたが、次第に他の可能性を探索し始めていた。その理由は、彼が軍歴を重ねる中で、ヨーロッパや中東の新たに占領した町にあった建築上の重要性のある建物を研究する機会を得ていたからである。 1530年代半ば、スィナンは重要な建物を設計する機会をはじめて得た。シリアのアレッポに建てたヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイ(フスルウィーヤ・モスク)とそれに付属する2棟のマドラサである。ヒュスレヴ・パシャ・ジャーミイは、スィナンの上役でアレッポのスルタンであった人物のために、2つの大きな遠征の合間を縫って、1536年から1537年の冬の時期に建設された。建築をひどく急いだ痕跡が、つくりの粗末さや、ぞんざいな装飾に見て取れる。 帝室造営局の建築家として最初にうけた主要な依頼は、スレイマン1世の正后(英語版)ロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)のための、さほど大規模ではない複合的な居宅の建設であった。スィナンは先人の引いた線のとおりの設計をしなければならず、まったく創意のない、使える空間をただ伝統に従って並べただけの設計に終始した。それでも妃の居宅はアレッポのモスクよりもうまく建てることができ、ある種の気品を漂わせた。もっとも、その後、この妃の居宅は多くの修繕に苦しんだ。1537年に南アルバニアのヴロラに建てられた防御塔の設計もスィナンの手によるものとされている。ヴロラはスレイマン1世のイタリア遠征時に陣を張った町であるが、そこにスィナンが建てたムラディーエ・ジャーミィ(英語版)の防御塔は、テッサロニキの白塔に非常によく似ている。 1541年に大提督バルバロス・ハイレッディンの墓廟 (türbe) の建設に取り掛かる。この墓廟が建てられたベシクタシュ地区は、イスタンブルのヨーロッパ側の岸辺にあり、提督の軍船がよく集結した場所であった。奇妙なことに提督はその墓廟ではなく、その近くにあるイスケレ・モスク(下述)に埋葬された。そのとき以来現在まで、この墓廟の存在はほとんど無視されていた。 スレイマン1世の一人娘で、大宰相リュステム・パシャの妻、ミフリマーフ・スルタン(英語版)の委嘱により建設したウスキュダルのイスケレ・モスク(ミフリマーフ・スルタン・ジャーミイ (ウスキュダル)として知られる)は、マドラサ(大学)、イマレット(厨房)、メクテブ(クルアーン学校)が付属する大規模な複合施設であり、広々とした高い中央の空間、すらりとしたミナレット(尖塔)、単一のドーム天蓋、両翼に広がる3つの半ドームが3つのエクセドラに突き当たる構造、幅広の二重ポルチコといったいくつかの点で、スィナンの円熟期の様式の特徴を見て取ることができる。なお、イマレットは現存しない。建設の完了は1548年。二重ポルチコが建設されたのはオスマン建築史上初めてではないが、これを機に公共のモスクやワズィールが建てるモスクなどに流行する。内側のポルチコの柱頭に鍾乳石が用いられ、外側のポルチコの柱頭がシェヴロン・パターン(V字)(英語版)で造作されたこの二重ポルチコを見たミフリマーフとリュステム・パシャは、イスタンブルの3つのモスクと、テキルダーのリュステム・パシャ・モスクにも二重ポルチコの設置を所望した。 1543年11月、スィナンが上述のイスケレ・モスクの建設を始めたばかりのころ、スィナンは急遽、スレイマン1世に新しいジャーミイの建設を命じられた。そのジャーミイは、大帝の最もかわいがっていた息子の墓廟に付随する大規模なものであって、大帝はバルカン半島への何度目かの遠征から帰還したある日に突然、皇太子シェフザーデ・メフメトが齢22で亡くなったという知らせを受け取ったのであった。このシェフザーデ・ジャーミイ(英語版)には、それまでのスィナンの建築作品のどれよりも大規模、且つ、野心的な試みが盛り込まれることになった。そのため、建築史の専門家からは、スィナン最初の傑作であるとの評価がなされている。 大きなドームを中心にするという構想に取り憑かれたスィナンは、ディヤルバクルのファティフ・パシャ・ジャーミイ(トルコ語版)や、ハスキョイ(英語版)のピーリー・パシャ・ジャーミイのようなモスク建築の設計の仕事を始めた。スィナンがペルシア遠征に従軍した際に、上の2つのモスクを訪れた可能性は高く、遠征以後に設計した中央ドームを持つモスクにおいては4つの同じ大きさの半ドームが中央ドームに付随する設計がなされている。この上部構造は巨大ではあるが優美な、八角になるように丸溝が彫られた自立する4本の支柱により支えられ、これらの支柱がそれぞれ横の壁に合体する。四隅の箇所では、屋根を越える高さにそれぞれ尖塔が延び、建物をしっかり定位させる働きをする。この整然とした建築コンセプトは、既に伝統的なオスマン建築に何かを付け足したような設計とは異なっており、特筆される。セデフカル・メフメト・アーガー(英語版)は、のちに彼が設計したスルタン・アフメト・ジャーミイにおいて、その外見を少しでも軽く見せようとして、丸溝を彫った支柱のコンセプトを流用する。しかしながら、スィナンは同じ手を別のモスクでもう一度使おうとはしなかった。
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