「御取次之筋目」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/03 04:20 UTC 版)
「取次 (豊臣政権)」の記事における「「御取次之筋目」」の解説
小牧・長久手の戦いののち、秀吉・家康の講和が成立してから小田原征伐によって後北条氏が没落するまでの数年間(1580年代後半)、秀吉は上杉景勝に対し、家康と談合して「関東之儀」(「御取次の儀」)にあたるよう命じ、その上杉に対しては増田長盛と石田三成が景勝との取次にあたらせている。秀吉の旧来の朋友であった加賀国(石川県)金沢城主前田利家も北陸・奥羽・東国の諸大名との仲介にあたっており、さらに、これら大大名による取次のみならず、富田知信・津田信勝・和久宗定・施薬院全宗らも取次として活動した。 こうした「取次」をめぐる重層的で複雑な関係は、山本博文によれば、いまだ戦時色が強く、諸大名の旗幟の定まらない段階における「手筋としての取次」=「御取次之筋目」(外交交渉のルート)が複数存在していることの現れであった。ここでの「取次」は、役割のうえでは戦国時代における交渉役と同じであり、その場合、交渉にあたる人物は交渉相手に献身することによって双方を良好な関係を築こうとすることも多かった。しかし、北条氏滅亡によって東国が平定され、天下一統が達成されると常陸国・下野国(栃木県)・安房国(千葉県)の諸大名に対して秀吉は増田長盛を「取次」にあて、特に佐竹氏に対しては長盛のほか石田三成をその任にあてるなど秀吉政権の奉行クラスに取次の任を担わせた。秀吉はやがて大名権力の内部に干渉して「指南」(指導)するなど、取次の役割と性質を変化させ、豊臣政権の公的な機構として運用した。
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