「御神砂物語」
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穴守稲荷神社編『穴守稲荷神社史』より 昔、要島の穴守に老夫婦が暮らしていた。老夫は漁に出かけ、日々の糧を得ていた。大漁、不漁を繰り返しながらの暮らしぶりはいつものことながら、たまたま不漁が続き、老夫婦の顔が曇ることが多くなった。 そんなある日、近頃には珍しく多くの魚が獲れ、老夫は小舟より魚を魚籠に入れ、喜んで老婦のもとへもどった。 「おばあさん、今日は大漁じゃ、大漁じゃ」 重い魚籠をおろし、老婦に大漁の魚を見せようとした。しかし、重い思いをして運んだ魚籠には魚一匹の姿もない。老夫婦は不審げに顔を見合わせ、その魚籠を覘きこんだ。その中には大量の湿った砂が入っているだけだった。 あくる日、昨夜の不審を抱きながらも、老夫はまた小舟をあやつり、漁に出た。幸い、漁は昨日と変わらず大漁であった。しかし、家路につき、魚籠を覘けば、やはり大量の砂があるだけだった。そんな日が何日もつづき、あまりの不審さに驚き、老夫は村人にこの不思議を伝えた。 その噂は村中に広がり、さまざまな憶測が飛び交ううち、ある村人が言った。 「その仕業は、穴守稲荷に住む狐の悪さに違いない。そんな狐は捕まえて、殺してしまうのが一番じゃ」 村人は、手に手に弓や矢をもって、狐を探し、遂には狐を生け捕りにした。あわや、狐が殺されるという瞬間、老夫婦が言った。 「どうかお願いじゃ。その狐を殺すのだけはやめてくれないか。可哀想ではないか。それに、もし狐を殺してしまえば、後でどんな報いが村人にあるか判らん。神さまの罰が当たる。」 それを聞いた村人は、結局狐を放してやることにした。 老夫は、あくる日からも、常に変わらず漁に出かけた。ところが、漁は大漁であった。しかも、魚籠の中には、重い砂ではなく、魚の姿で溢れんばかりであった。その後、大漁はつづき、老夫婦は大いに喜んだ。 しかも不思議なことに、その魚籠にはなぜか濡れた砂がいつもついていた。それを聞いた村人は、穴守稲荷へ参詣し、砂を持ち帰り、各自の魚籠の中にその砂を入れるようにしたところ、大漁が続いたという。また、ある人は台所にその砂を撒いたところ、その日から訪れるお客が増え、商売繫昌が続いたという。 神穴 諸人御穴と崇む本祠の右背にありて窖上に小祠を立て周囲に屋を覆ひ中に数多の魚介及揚物を供物とす其数山積して屋裏に満ち常に信徒の交々穴前に額きて祈誓を籠め終りに迄んで窖中の土砂を掬ひ帰るあり由来其砂土を店頭に撒布せば顧客多く商業繁栄の功徳ありと是等侠斜の巷に於ける料理店、待合、絃妓、幇間其他芸人等に多し故に祭日(午の日)の如きは肩摩雑沓を極め殊に婦女子の如きは窖前に近くだも得能はざるべく 又窖中時に霊狐の面を現すことあり之れを拝視する者正しく満願の徴なりとし欣喜雀躍他をして之れを羨ましむるにあり — 明治期の神砂について 藤井内蔵太郎編「羽田穴守稲荷由来記」より抜粋 御穴は拝殿の右に有つて、上には整然と屋根を葺いて三方を囲つてある。晝も猶暗い所ではあるが、常に参詣の人が絶へないので、御蠟の火の消えた時が無い。 (中略)御穴の砂を頂いて行つて自分の見世先へ撒くと云ふと見世が繁昌すると云ふので、信仰の人々は皆砂を持つて歸る。 — 御穴について 鈴木嘉之助著「信仰美談穴守稲荷」より抜粋 この「御砂様」の逸話は、その後村から村へと伝わり、明治期には東京はもちろん遠くの府県まで達するようになった。そして、お客を呼ぶ必要のある料理屋や割烹、花柳界、芸能界を中心に、酒屋や店舗の人がはるばると穴守稲荷神社へ参詣し、その砂を袋に入れて持ち帰る習わしが定着していった。 現在も古来より我々の生活には土(砂)の上より活動が始まり土地の生産を守ってくれる大神の霊験のしるしとして、奥之宮の「御神砂」を持ち帰り、屋敷内または玄関に撒く、あるいは身につけると、御神徳が授かり、諸願が叶うとされる。また、御神砂が中に入った特別なお守りも頒布されている。
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