「復権」と金日成の死
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1993年7月26日、金英柱は祖国解放戦争戦勝記念塔の完工式に出席し、18年ぶりに公式の場に復活した。12月8日、第6期党中央委員会第21回総会において党政治局員に任命され、続く12月11日、第9期最高人民会議第6回会議において国家副主席に選出された。翌1994年7月、国家主席の金日成が死去して主席が空位となり、1998年の憲法改正で国家主席制が廃止されると、金英柱は最高人民会議常任委員会の名誉副委員長となった。 金日成の死因については、当時より金正日が関与していたのではないかという疑惑が持たれていた。もし、これに近いことが事実であるならば、金英柱を含む政治局員クラスの幹部は金日成突然死の真相を知っており、金正日は決定的な弱みを握られていたことを意味する。当時、中国では「北内部で国家主席を金正日以外の人物に担当させよという主張が出ている」という内容の報道が繰り返され、金日成の急死後も中国共産党は金正日委員長と会談を持ち「中国は金主席の遺志を守る」ことと「北朝鮮が経済改革・開放政策を導入することを支持する」ことを強調した。北京1994年2月2日発の共同通信は「中国が金正日後継よりも金英柱政権を望んでいるとの見方にも、単なる憶測であると否定した」ことを、金英柱自身が平壌駐在の外交官に語ったことを報じており、7月20日の金日成追悼大会においても、金永南外相の追悼の辞では「金正日」の名前は常に「党中央委員会」等を修飾する語として登場し、主語はあくまで「党中央委員会」であり、「金正日」の役割に関しては、党や軍への貢献は認めても「国家」への貢献は注意深く排除されていた。当時の金正日の立場は微妙で、金英柱の突然の「復権」にも何らかの政治的事情を背景にかかえていることが考えられる。
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