出自論争
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王建の第2后妃荘和王后呉氏は、三国時代に中国から帰化した貴族の後裔であり、したがってその子の第2代高麗王恵宗が中国人の血を引いている事は公式に認められている。 中国人説 中国の吉林省中国社会科学院歴史研究所の史長楽は、吉林省中国社会科学院が隔月刊で発行する歴史雑誌『東北史地』2007年第3号において、933年に後唐の明宗が王建に送った冊封詔書などを根拠に、王建は中国の淮河流域から来た漢人の末裔との説を唱えている。冊封詔書の「卿(王建)は長淮の茂族」という一節があり、史長楽は「長淮は淮河流域を意味する言葉で、太祖王建の本籍地が中国であるため、高麗は中国人が建国した国」と述べている。また、冊封詔書のうち「朱蒙が開国した地のよい縁起を追ってその軍将になり、箕子が作った蕃国の形跡を踏んで幸福と和楽を得る」という一節を、史長楽は「この言葉は、高麗は中国出身統治者が建てた国という意味」と述べている。その理由に「王建の建国を朱蒙の開国と箕子の立国に直接比喩したのは、朝鮮半島の歴史で二人に続いてもう一人の中国出身統治者が生まれたという意味であるから」と述べている。後唐は933年に王瓊と楊昭業の使者を高麗に派遣し、王健を高麗国王に冊封したが、『高麗史』には、王建と妻の柳氏の冊封調書、冊封及び物品を送った調書、三軍に国王冊封を知らせる調書など四通の調書が記載されているが、妻の柳氏の冊封調書には「又詔曰卿長淮茂族漲海雄蕃以文武之才控玆土宇以忠孝之節來化風」という節があり、長淮とは中国の淮河或いは淮河流域のことであり、「漲海雄蕃」とは海の彼方の藩国の諸侯という意味である。また、宋が成宗を冊封した985年の冊封調書にも「常安百濟之民、永茂長淮之族」と再度言及されており、これを根拠に王建の先祖は中国淮河流域の漢人の後裔と断定し、中国の淮河出身の末裔である王建が、中国の海の向こう側に諸侯である高麗を建国したというものである。また、王建冊封調書には「踵朱蒙啓土之禎爲彼君長履箕子作蕃之跡」という節があり、王建は朝鮮の歴史のなかで、箕子と朱蒙の後に続き、中国の支配者が高麗の建国したと解釈し、高麗は漢人の末裔である王建が建国し、箕子朝鮮と高句麗に続き、中国が朝鮮半島に建国した三番目の政権とした。また、中国の歴史学者の楊保隆(中国社会科学院)は「高麗を建国した王建は中国の名字」などの根拠から中国人であると主張している。 満州人説 倉山満は、高麗は満州族・韓族・漢族のどの民族になるのかを完全に区切ることはできず、そもそもどの民族なのかは本人の意識次第であることから政治的な結論にならざるを得ず、今さら王建のDNA型鑑定は不可能であるために、「王建ですが、出自が不明」とする。そして、「大韓民国公式見解では、もちろん自分たちの先祖としてのKorea民族として扱っていますが、これに対して中華人民共和国は、『高句麗は、我が東北部(つまり満州)の出身なのだから、漢民族である』と主張して」おり、あえて言うなら、王建は満州人であり、高麗は満州人が朝鮮半島に建国したというのが正解である旨述べている。
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出自論争
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『金史』巻1世紀には以下の記述がある。 金之始祖諱函普,初從高麗來,年已六十餘矣。 — 金史、巻一、世紀 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。金史/卷1 「金の始祖函普は高麗からやって来て、年は既に60余歳であった」とあり、高麗から来たと記されている。これを根拠にして、韓国や北朝鮮では「金は朝鮮民族起源国家」「金は朝鮮民族の建てた国家」「女真の起源は高麗人だから女真が建国した金と清は朝鮮の歴史」などと主張している人物が多数いる。
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