陽成源氏説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:56 UTC 版)
経基王について、貞純親王の子ではなく貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子であるとする陽成源氏説がある。この出自論争は実証ができず決着はついていない。 この陽成源氏説は明治の歴史学者星野恒が『史学雑誌』に発表した論文「六孫王ハ清和源氏ニ非ザルノ考」において提唱した説で、「清和源氏の祖は実は清和天皇ではなく陽成天皇であるが、暴君であったとされる陽成帝の名を冠せず清和源氏を名乗った」というものである。石清水八幡宮祠官田中家文書の中に源頼信が誉田山陵(応神天皇陵)に納めたと称する永承元年告文に「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇」と明記してあることが根拠である。発表当時は波紋を投げかけたものとなったが、通説の清和源氏説を覆したり長く論争になったりすることはなかった。 その後、竹内理三が永承元年告文を肯定すると、庄司浩、杉橋隆男、奥富敬之、貫達人、元木泰雄、野口実など支持者が増え有力な仮説となった。一方で宝賀寿男、赤坂恒明など旧来の系譜が妥当とする立場もあり、決着はついていない。 賛成の立場でも星野説そのままではなく、竹内は陽成天皇の暴君像を武士の家としてふさわしいものと捉えている。 また経基・貞純親王・元平親王などの年代で論じるものもある。ただし赤坂によって、史料性の上で問題ないといえない系図資料が使用されていると指摘されている。赤坂は、当時の皇族の叙位例・氏爵などから清和源氏説が妥当とする。また『権記』に引用されている天暦7年(953年)の王氏爵不正事件に現れる、清和天皇の子孫でありながら陽成天皇子孫を詐称したとして罰せられた源経忠を経基あるいはその兄弟と推定し、頼信が願文で陽成天皇の子孫であることは真実であると主張して名誉回復を図ったと解釈する。 写本であり告文の裏面に校正したと但書きがあることから、宝賀寿男はその信憑性を疑っている。一方、安田元久は星野説の考証を肯定する、ただし一層厳密な史料批判が必要とする。義江彰夫も今考証する余裕はないが源頼信の作に間違いないとする。赤坂は先行研究から後世の偽作でないことは確実だが源頼信による作為があり実際と異なるとしている。 なお経基が清和源氏でも陽成源氏でも、武士の家となった系統の性質に違いはない。また「清和源氏」は広く名が知られさらに名称で本質は変わらないため、「陽成源氏」へ名称を変える必要はないとする意見もある。 系譜 清和源氏説:清和天皇-貞純親王-源経基-源満仲 陽成源氏説:清和天皇-陽成天皇-元平親王-源経基-源満仲
※この「陽成源氏説」の解説は、「清和源氏」の解説の一部です。
「陽成源氏説」を含む「清和源氏」の記事については、「清和源氏」の概要を参照ください。
- 陽成源氏説のページへのリンク