出航から馬公まで
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1944年8月8日、ヒ71船団は門司を出た。伊万里湾に立ち寄って陣容を整えた後に、8月10日、あらためて出航した。このときの編成は、タンカー8隻(海軍給油艦速吸を含む)、陸軍特殊船3隻、客船・貨物船8隻および海軍給糧艦伊良湖であった。いずれも優秀船で、最高速力15ノット以上で航行可能だった。陸軍特殊船や客船・貨物船の多くには陸軍部隊が軍需物資とともに満載されており、タンカーの一部にまで便乗していた。輸送兵力は、部隊として35,000名と便乗者2,600名、計37,600名、比島転用の重砲隊であった。 これら合計20隻の輸送船を、空母大鷹、夕雲型駆逐艦藤波(第32駆逐隊)、神風型駆逐艦夕凪(第30駆逐隊)、海防艦5隻(平戸、倉橋、御蔵、昭南。第11号)が護衛した。大鷹は今回が3度目の船団護衛任務で、対潜哨戒用に第931海軍航空隊所属の九七式艦上攻撃機12機を搭載していた。船団の指揮は、海防艦平戸を旗艦とする第6護衛船団司令部(司令官:梶岡定道少将)が執った。護衛艦は、4列縦隊を組んだ輸送船の周囲を取り囲むように航行した。大鷹と直衛2隻(藤波、夕凪)は船団後方に位置した。 出航から半日後、陸軍特殊船吉備津丸(日本郵船、9,574トン)の機関が故障、同船は離脱して長崎港に向かった。東支那海を横断し、舟山群島を経て中国大陸沿岸を南下。12日夜~13日にかけて天候が悪化し、船団は暴風雨(台風接近の予想あり)を避けるため航路を変更。8月15日夕刻、台湾と中国大陸間の台湾海峡に浮かぶ澎湖諸島の馬公に寄港した。馬公で、給糧艦「伊良湖」など輸送船4隻が別行動をとることになった。さらに、ヒ71船団の重要度の高さにかんがみ、潜水艦襲来の危険が大きな、台湾とバタン諸島間のバシー海峡から南シナ海の突破に万全を期すため、第一海上護衛隊より第三掃蕩小隊の駆逐艦朝風と海防艦4隻(択捉、松輪、佐渡、日振)が護衛に追加された。
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