中国識者の見解とは? わかりやすく解説

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中国識者の見解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 01:52 UTC 版)

函普」の記事における「中国識者の見解」の解説

中国学者多くは、『金史』の函普に関する記録、すなわち「従高麗来(高麗より来た)」という記事比較歴史的事実近く函普その先祖は新羅移住しその後高麗国経て女真同盟加わった高麗出身女真とする見解一般的であり、張博泉は、函普靺鞨あるいは女真考えており、「函普はもともと女真であったが、高麗国居住していた」と主張している。孟広耀は、「新羅人高麗人朝鮮主体的な民族であるが、函普のような靺鞨あるいは女真主体的な民族隷属していた」と主張している。 中国学者たちは、高麗領内はいくつもの民族暮らしていたため、函普が「高麗から来た」というのは「高麗人」を意味するものではないと考えている。現代的にうならば函普高麗居住していた女真人ということになる。実際、『金史列伝第三と洪皓の『松漠紀聞』は、いずれも函普高麗から来たと記述しているが、その民族高麗人なのか高麗居住している女真人なのかは明らかにていない金代完顔勗(中国語版)などが撰修した『祖宗実録』は、金始祖高麗人新羅人ではなく高麗居住していた女真人であることを示している。 『高麗史睿宗三によると、金景祖の烏骨廼(中国語版)の息子である完顔盈歌は、函普高麗から来たことから、高麗王朝を「父母之邦」と称えている。しかし、上記発言は、女真高麗連合軍による遼への共同攻撃をおこなうために、高麗外交的協力得ようとした一種外交辞令であることが指摘されている。 孫進己は、函普高麗から来る前から「完顏」姓を持っていたので、函普函普家族高麗あるいは新羅住んでいた女真人だったと主張した。孟古托力と趙永春は、函普祖先女真人であり、新羅居住しその後新羅飲み込んだ高麗住んでいたと主張した欧米学者は、函普伝説的な故事とみなす。この女真の祖先伝説」は、10世紀のある時期完顔部が高麗国渤海国からの遺民受け入れていたことを示唆していると、Herbert Frankeは説明するFrederick W. Mote英語版)は、完顔氏の「部族伝説」に基づいており、函普兄弟が、1人高麗残り、もう1人渤海国残っていることは、高麗および渤海国部族完顔氏祖先との縁を象徴していると推定している。 王久宇(ハルビン師範大学中国語版))は以下のように論証している。 函普は「高麗人」だとする代表的な史料は、鄭麟趾著した高麗史』である。この史料は「或曰:昔我平州僧今俊遁入女真,居阿之,是謂金之先。或曰:平州僧金幸之子克守初入女真阿之,娶女真女生子曰古乙太師,古乙生活羅太師,活羅多子,長曰劾里鉢,季曰盈歌盈歌雄傑,得衆心盈歌死,劾里鉢長子烏雅束嗣位。烏雅束卒,弟阿骨打立。」とあるが、「あるいは曰く函普高麗国平州僧侶今俊(金俊)、あるいは曰く平州僧侶金幸の息子克守」という「或曰」を二度使用する表現は、函普高麗王朝僧侶という『高麗史』の主張が、当時流布していた考証されていない根拠のない説話に過ぎないことを物語る。また、金史』には「金之始祖函普,初従高麗来,年已六十余矣。」とあり、函普高麗から来たと明記されているが、ここで言及されている「高麗」は函普出身地である地理的国家的概念であって民族でないことは明白であり、この一節函普高麗人であることを示すものではないし、高麗人であることを証明するものでもない。 『金史世紀には函普から烏雅束に至る完顔部の酋長10人の歴史記録されているが、その主な史料出所太祖即位後、完顔勗(中国語版)などが「采摭遺言旧事」として責任負って作成した祖宗実録』である。一般的に祖宗実録』は『金史』を編纂する際の基本史料として信頼性がある。『金史世紀には、函普兄弟別れた後、函普の兄の阿古乃は高麗王朝留まり函普牡丹江完顔部に行き函普の弟の保活里は曷懶甸(中国語版)に行ったという記述続いて、「及太祖敗遼兵于境上,獲耶律謝十,乃使福、斡答剌招諭渤海人曰:女直渤海同一家。」とある。遼に対抗する過程において女真人渤海人とを団結させるために「女直渤海同一家」と宣言したとする解釈はあるが、これらの記事が『金史世紀登場するのには特別な味がある。『金史世紀は、金の始祖である函普来歴紹介する記事のなかに、阿骨打言った女直渤海同一家」という言葉突如入れた意図は何か。金建国とは関係がない史実史書のなかで叙述したとは考えにくく、唯一の合理的な解釈は、函普渤海国遺民ということである。この史料は、渤海遺民函普完顔部の酋長となったことから、「女真渤海は元々同族である」という表現おこない、あるいは阿骨打は、自らの先祖渤海人であることを告白したとも解釈できる。 『金史高麗伝には、「金人本出靺鞨之附于高麗者,始通好隣国,既而為君臣。」という記事がある。ここに登場する金人」は、金王朝始祖である函普その子孫、「靺鞨」は、黒水靺鞨および粟末靺鞨を指す。『金史『新唐書』唐会要』などによると、粟末靺鞨はかつて高句麗隷属し、後に粟末靺鞨渤海国建国し、その後唐に隷属した女真前身である黒水靺鞨は、高句麗附き、後に唐に附き渤海国建国される渤海附き、遼が渤海滅すると遼に附くという有様であった女真人渤海人高麗隷属した歴史があり、史料によれば10世紀には実際に朝鮮半島北部女真人渤海人多数存在していたといい、函普女真人あるいは渤海人である可能性は高い。 『金史高麗伝の「金人本出靺鞨之附于高麗者」という文言の「附于」は検証する価値がある。「附于」というのは、函普高麗直接統治下にある臣民ではなく高麗王朝統治下にある集団的な部族を指す言葉であり、高麗政権とは距離を有する関係にあったことを意味する。『金史』に記され函普朝鮮半島から牡丹江一帯完顔部への長距離移動は、10世紀中国東北部特殊な歴史的条件下における集団的活動としてのみ可能であり、個人的行動これほど長距離移動おこなったとは考えにくい。918年朝鮮半島では新羅政権下の王建高麗王朝樹立し朝鮮半島では王建高麗王朝新羅併存することになった926年に遼が渤海国滅し935年には高麗新羅滅ぼし朝鮮半島統一した920年代から930年代にかけて東北アジア地域では民族移動激しくなるが、この時期靺鞨集団移動史料数多記されているが、高麗へ集団移動おこなった靺鞨渤海人だけである。 考証によると、渤海国滅亡後遺民流れ大きく分けて五つある。一つは、もとの場所に留まり、後に女真共同体に加わる。二つは、東丹国とともに太子河一帯移動する三つは、契丹故地シラムレン川北方移動する四つは、高麗亡命し、その数は約2万戸から約3万戸十数万人である(函普はこのなかに含まれる)。五つは、一部渤海遺民が「定安」を建国し、約49年存続した。 時代背景から、函普移動過程歴史的脈絡整理するならば、926年渤海滅亡後函普を含む十数万人渤海人朝鮮半島亡命した。この時代朝鮮半島新羅高麗二つ政権併存しており、函普は、新羅高麗間の戦争避けるために王建朝鮮島を統一する935年以前朝鮮半島去った函普完顔部への到来は、立ち後れていた完顔部に渤海高麗文化もたらし完顔部が急速に発展する根拠与えた。なお、函普朝鮮半島離れる時代高麗王朝新羅の両政権併存していた時期であるため、『金史』には「初従高麗来」と記し、『松漠紀聞』には「女真酋長新羅人」と記している。

※この「中国識者の見解」の解説は、「函普」の解説の一部です。
「中国識者の見解」を含む「函普」の記事については、「函普」の概要を参照ください。

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