中国識者の見解
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中国学者の多くは、『金史』の函普に関する記録、すなわち「従高麗来(高麗より来た)」という記事が比較的歴史的事実に近く、函普とその先祖は新羅に移住し、その後高麗国を経て、女真の同盟に加わった高麗出身の女真とする見解が一般的であり、張博泉は、函普は靺鞨あるいは女真と考えており、「函普はもともと女真であったが、高麗国に居住していた」と主張している。孟広耀は、「新羅人と高麗人は朝鮮の主体的な民族であるが、函普のような靺鞨あるいは女真は主体的な民族に隷属していた」と主張している。 中国学者たちは、高麗領内にはいくつもの民族が暮らしていたため、函普が「高麗から来た」というのは「高麗人」を意味するものではないと考えている。現代的に言うならば、函普は高麗に居住していた女真人ということになる。実際、『金史』列伝第三と洪皓の『松漠紀聞』は、いずれも函普が高麗から来たと記述しているが、その民族が高麗人なのか高麗に居住している女真人なのかは明らかにしていない。金代に完顔勗(中国語版)などが撰修した『祖宗実録』は、金始祖が高麗人や新羅人ではなく高麗に居住していた女真人であることを示している。 『高麗史』睿宗三によると、金景祖の烏骨廼(中国語版)の息子である完顔盈歌は、函普が高麗から来たことから、高麗王朝を「父母之邦」と称えている。しかし、上記の発言は、女真・高麗連合軍による遼への共同攻撃をおこなうために、高麗の外交的協力を得ようとした一種の外交辞令であることが指摘されている。 孫進己は、函普は高麗から来る前から「完顏」姓を持っていたので、函普や函普の家族は高麗あるいは新羅に住んでいた女真人だったと主張した。孟古托力と趙永春は、函普の祖先は女真人であり、新羅に居住し、その後、新羅を飲み込んだ高麗に住んでいたと主張した。 欧米の学者は、函普を伝説的な故事とみなす。この女真の「祖先の伝説」は、10世紀のある時期に完顔部が高麗国と渤海国からの遺民を受け入れていたことを示唆していると、Herbert Frankeは説明する。Frederick W. Mote(英語版)は、完顔氏の「部族伝説」に基づいており、函普の兄弟が、1人は高麗に残り、もう1人は渤海国に残っていることは、高麗および渤海国の部族と完顔氏の祖先との縁を象徴していると推定している。 王久宇(ハルビン師範大学(中国語版))は以下のように論証している。 函普は「高麗人」だとする代表的な史料は、鄭麟趾が著した『高麗史』である。この史料は「或曰:昔我平州僧今俊遁入女真,居阿之古村,是謂金之先。或曰:平州僧金幸之子克守初入女真阿之古村,娶女真女生子曰古乙太師,古乙生活羅太師,活羅多子,長曰劾里鉢,季曰盈歌。盈歌最雄傑,得衆心。盈歌死,劾里鉢長子烏雅束嗣位。烏雅束卒,弟阿骨打立。」とあるが、「あるいは曰く、函普は高麗国平州僧侶今俊(金俊)、あるいは曰く、平州僧侶金幸の息子克守」という「或曰」を二度使用する表現は、函普が高麗王朝の僧侶という『高麗史』の主張が、当時流布していた考証されていない根拠のない説話に過ぎないことを物語る。また、『金史』には「金之始祖諱函普,初従高麗来,年已六十余矣。」とあり、函普が高麗から来たと明記されているが、ここで言及されている「高麗」は函普の出身地である地理的・国家的概念であって、民族でないことは明白であり、この一節は函普が高麗人であることを示すものではないし、高麗人であることを証明するものでもない。 『金史』世紀には函普から烏雅束に至る完顔部の酋長10人の歴史が記録されているが、その主な史料の出所は太祖即位後、完顔勗(中国語版)などが「采摭遺言旧事」として責任を負って作成した『祖宗実録』である。一般的に『祖宗実録』は『金史』を編纂する際の基本史料として信頼性がある。『金史』世紀には、函普が兄弟と別れた後、函普の兄の阿古乃は高麗王朝に留まり、函普は牡丹江の完顔部に行き、函普の弟の保活里は曷懶甸(中国語版)に行ったという記述に続いて、「及太祖敗遼兵于境上,獲耶律謝十,乃使梁福、斡答剌招諭渤海人曰:女直、渤海本同一家。」とある。遼に対抗する過程において女真人と渤海人とを団結させるために「女直、渤海本同一家」と宣言したとする解釈はあるが、これらの記事が『金史』世紀に登場するのには特別な意味がある。『金史』世紀は、金の始祖である函普の来歴を紹介する記事のなかに、阿骨打が言った「女直、渤海本同一家」という言葉を突如入れた意図は何か。金建国とは関係がない史実を史書のなかで叙述したとは考えにくく、唯一の合理的な解釈は、函普が渤海国の遺民ということである。この史料は、渤海遺民の函普が完顔部の酋長となったことから、「女真と渤海は元々同族である」という表現をおこない、あるいは阿骨打は、自らの先祖が渤海人であることを告白したとも解釈できる。 『金史』高麗伝には、「金人本出靺鞨之附于高麗者,始通好為隣国,既而為君臣。」という記事がある。ここに登場する「金人」は、金王朝の始祖である函普とその子孫、「靺鞨」は、黒水靺鞨および粟末靺鞨を指す。『金史』『新唐書』『唐会要』などによると、粟末靺鞨はかつて高句麗に隷属し、後に粟末靺鞨は渤海国を建国し、その後唐に隷属した。女真の前身である黒水靺鞨は、高句麗に附き、後に唐に附き、渤海国が建国されると渤海に附き、遼が渤海を滅すると遼に附くという有様であった。女真人も渤海人も高麗に隷属した歴史があり、史料によれば10世紀には実際に朝鮮半島北部に女真人や渤海人が多数存在していたといい、函普が女真人あるいは渤海人である可能性は高い。 『金史』高麗伝の「金人本出靺鞨之附于高麗者」という文言の「附于」は検証する価値がある。「附于」というのは、函普が高麗の直接統治下にある臣民ではなく、高麗王朝統治下にある集団的な部族を指す言葉であり、高麗の政権とは距離を有する関係にあったことを意味する。『金史』に記された函普の朝鮮半島から牡丹江一帯の完顔部への長距離移動は、10世紀の中国東北部の特殊な歴史的条件下における集団的活動としてのみ可能であり、個人的行動でこれほどの長距離移動をおこなったとは考えにくい。918年、朝鮮半島では新羅政権下の王建が高麗王朝を樹立し、朝鮮半島では王建の高麗王朝と新羅の併存することになった。926年に遼が渤海国を滅し、935年には高麗は新羅を滅ぼし、朝鮮半島を統一した。920年代から930年代にかけて東北アジア地域では民族の移動が激しくなるが、この時期の靺鞨の集団移動は史料に数多記されているが、高麗への集団移動をおこなった靺鞨は渤海人だけである。 考証によると、渤海国滅亡後の遺民の流れは大きく分けて五つある。一つは、もとの場所に留まり、後に女真の共同体に加わる。二つは、東丹国とともに太子河一帯に移動する。三つは、契丹の故地のシラムレン川の北方に移動する。四つは、高麗に亡命し、その数は約2万戸から約3万戸、十数万人である(函普はこのなかに含まれる)。五つは、一部の渤海遺民が「定安」を建国し、約49年間存続した。 時代背景から、函普の移動過程の歴史的脈絡を整理するならば、926年の渤海滅亡後、函普を含む十数万人の渤海人は朝鮮半島に亡命した。この時代の朝鮮半島は新羅と高麗の二つの政権が併存しており、函普は、新羅と高麗間の戦争を避けるために王建が朝鮮島を統一する935年以前に朝鮮半島を去った。函普の完顔部への到来は、立ち後れていた完顔部に渤海と高麗の文化をもたらし、完顔部が急速に発展する根拠を与えた。なお、函普が朝鮮半島を離れる時代は高麗王朝と新羅の両政権が併存していた時期であるため、『金史』には「初従高麗来」と記し、『松漠紀聞』には「女真酋長乃新羅人」と記している。
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