GHQでの活動
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「チャールズ・ウィロビー」の記事における「GHQでの活動」の解説
日本を占領した連合国軍の1国としてアメリカ軍も参加し、GHQでは参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲(特にプレスコード)を管轄した。政治犯として投獄されていた日本共産党幹部の釈放や、労働組合活動を奨励し、日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・L・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。 1945年10月4日、GHQより日本政府に対して人権指令が出され、治安維持法の廃止や特高警察の廃止、共産主義者などの政治犯の釈放が行われることになったが、日本の警察力の弱体化と、共産主義勢力の増長を危惧するウィロビーはこれらに強く反対していた。そのため、特高警察の機能を温存するために、内務官僚と共謀して「大衆的集団的不法行為の取締り」を名目に、内務省警保局に公安課を、各都道府県警察部に公安課と警備課を設置することを後押しした(公安警察)。 また、1947年の内務省の解体・廃止にも、日本政府の弱体化を招くとして、内務官僚と共に反対し、中央集権的な国家警察を維持するために、警察総局と公安局の設置や、公安庁の設置を後押ししたが、GSのケーディスの抵抗でうまくいかなかった。そのためウィロビーは、内務官僚の石井栄三や、加藤陽三と対抗策を練り、国家地方警察本部に警備部を設置することで、特高警察機能の温存を図ることに成功した。後に、ウィロビーは、自著で日本の警察制度に関して「日本の警察機構は、占領期間中にバラバラにされてしまったが、私の危惧した通り、これはうまくいかず、後に国家警察として再び一つになった」と記している。 極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、この裁判をよく思っていなかったウィロビーの釈放要求(ただし、笹川良一の釈放については慎重だったという)が通り、22名の容疑者に対する二次・三次の裁判は行われなかった。背景として、まずジャパン・ロビーが反共工作を取り仕切ったことと、加えて一次裁判で時間がかかりすぎてイギリスが裁判続行に消極的になったことも影響している。 オランダ代表のベルト・レーリンク判事の著書によれば、ウィロビーは「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っていたとされている。 GHQが許可した戦後初の渡米者で、日米文化振興会(現日米平和・文化交流協会)を興した笠井重治が、「有力な情報提供者」として親交があった事で知られる(袖井林二郎『マッカーサ-の二千日』)。また、A級戦犯においてウィロビーが釈放要求を出すのに慎重だったと言われている児玉誉士夫とは、その後児玉の通訳となり、「ロッキード事件」の最中に変死した福田太郎を、自著の翻訳者にするなど、児玉とも何らかの関係にあったと推測されている。 1948年には極東委員会でソ連のクズマ・テレビヤンコ中将は日本海海戦の意趣返しとして戦艦三笠の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止。結果、三笠の廃棄は免れた。後にチェスター・W・ニミッツ海軍元帥が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた三笠にとっては恩人といえる。 1950年の朝鮮戦争の際にウィロビーは「中国共産党軍(中国人民志願軍)は介入しない」とする報告をマッカーサーに行い、マッカーサーはこれを元にハリー・S・トルーマン大統領に対し中華人民共和国参戦の可能性を否定した。これが全くの誤認であったことは、後に中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)の参戦によって戦場で実証されることになった。
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GHQでの活動
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前記の通り、太平洋戦争後の1945年から1949年まで、GHQ・G2の民間諜報局(CIS)に所属した。春名幹男の著書によれば、民間諜報局で文書の編集課長をしていた。G2に残された石井ファイル(731部隊隊長だった石井四郎元中将の取調及び免罪工作に関与する文書)には、ラッシュの名前が記された文書が多数残されている。そのことから、春名はラッシュが免罪工作に関わっていたと考えている。このほか春名は、ラッシュが有末精三らを通じて、公職追放者の個人資料収集、戦犯訴追資料として原田熊雄日記(『西園寺公と政局』)の発掘と翻訳(里見弴や吉野源三郎が担当)、吉田茂・白洲次郎・松本重治・片山哲・森戸辰男・福島慎太郎らとの人脈形成などをおこなったとしている。 ラッシュは外交官の沢田廉三・美喜夫妻が麹町に所有していた邸宅を接収し、ここをCISの拠点「CISハウス」として使用した。CISハウスには戦犯訴追に関する個人情報が集められ、戦犯リストが作成された。ラッシュには寺崎英成をはじめ政府関係者が接触し、「戦犯を作り出すより、頼まれてもみ消す方が多かった」とされる。 また、1946年1月以降は「日本共産党に関する情報収集」に当たったとされる。加藤哲郎によると、ラッシュは上司に当たるチャールズ・ウィロビーとともに、中国革命に好意を示すジャーナリストを告発する赤狩りの一環としてアグネス・スメドレーを標的としたゾルゲ事件の調査に携わった。1947年8月にCISが作成した報告書について、加藤哲郎はラッシュが作成を指揮したのではないかと推定している。さらに、1949年にはスメドレーに関する情報収集の一環として、戦前に上海でリヒャルト・ゾルゲと関わりのあった川合貞吉を情報源として尋問した。このあとG2は川合に情報源としての報酬を与え、日本の警察とも連携して保護警備し、G2と日本警察は川合が個人的動機で共産党の内情と伊藤律を誣告した内容をも「活用」することとなった。
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