1945年 - 1986年 : 共産主義時代のユーゴスラビアにおけるコソボとは? わかりやすく解説

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1945年 - 1986年 : 共産主義時代のユーゴスラビアにおけるコソボ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:49 UTC 版)

コソボ紛争」の記事における「1945年 - 1986年 : 共産主義時代のユーゴスラビアにおけるコソボ」の解説

詳細は「コソボ・メトヒヤ自治州 (1946年-1974年)」および「コソボ社会主義自治州」を参照 セルビア人アルバニア人の間には20世紀通して常に民族間の対立があり、大規模な暴力行為へと頻繁に結びついた。特に第一次世界大戦第二次世界大戦戦間期には頻発した第二次世界大戦後社会主義体制をとるヨシップ・ブロズ・チトー政府ユーゴスラビア社会主義連邦共和国全域において民族主義者活動体系的に抑止し、ユーゴスラビアいかなる構成国も、ヘゲモニー覇権となってユーゴスラビア牛耳ることのないよう努めた。特に、セルビアは、ユーゴスラビアの中で最大で、最も多く人口抱えていた。そのため、セルビア影響力制限するために、セルビア北部ヴォイヴォディナ南部コソボ・メトヒヤそれぞれヴォイヴォディナ自治州コソボ・メトヒヤ自治州としてセルビア本体から切り離された。コソボ国境ユーゴスラビアにおけるアルバニア人居住地域の境と完全には一致していなかった。多数アルバニア人住民コソボ域外マケドニアモンテネグロセルビア本体残され一方コソボ北部には多くセルビア人が住む地域含まれた。いずれにしても新設されコソボ領域全体では、ユーゴスラビア王国時代1921年段階アルバニア人多数派であったコソボ公的な自治1945年ユーゴスラビア憲法によって定められ大きな自治権与えられなかった。チトー秘密警察(UDBA)は民族主義者厳しく弾圧した1956年には、多くアルバニア人コソボにおいて国家転覆企てスパイ容疑訴追された。分離主義による脅威実際にそれほど大きなものではなく少数地下活動組織アルバニアへの統合求めて活動しているのみであり、政治的に大きな影響力持ち得なかった。しかしながら彼らの活動もたらす長期的な影響小さくなく、アデム・デマツィ(Adem Demaci)によって組織されアルバニア人統一革命運動は、後のコソボ解放軍(Ushtria Çlirimtare e Kosovës; UÇK)の政治的中核となっていった。デマツィ自身1964年に他の賛同者とともに投獄されている。 ユーゴスラビアでは1969年政府による大規模な経済再建プログラムによって豊かな北西部貧し南部地域の間で貧富の差拡大し政治的経済的な危機迎えていた。しかしながらユーゴスラビアおよびセルビアにおける真のアルバニア人の代表の設置求めアルバニア語地位向上を求め学生らの要求に、チトー応じることになった1970年には、ベオグラード大学下部組織であったプリシュティナ大学独立教育機関として設置された。コソボにおける教育アルバニア語化は、ユーゴスラビア国内でのアルバニア語教材の不足により困難となったが、アルバニア人自身教材用意することで合意された。 1974年コソボ政治的地位ユーゴスラビア憲法改正伴って大きく向上しコソボ政治的権利拡大された。ヴォイヴォディナとともにコソボは他のユーゴスラビア構成国多くの面において同等の地位を持つコソボ社会主義自治州となった政治権力依然として共産主義者同盟独占していたものの、独自のコソボ共産主義者同盟がその中核を担うようになった1980年5月4日チトー死によって、長期間にわたる政治的安定始まり経済危機民族主義者台頭によって状況次第悪化していった。コソボ最初に発生した大規模な衝突1981年3月アルバニア人学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土急速に拡大し各地大規模なデモ発生するなど、国家的反乱様相呈した抗議者らはコソボユーゴスラビア7番目の構成共和国とすることを求めたしかしながら、この要求セルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者自身も、この要求大アルバニア主義への始まり見ていた。大アルバニア主義コソボ全土モンテネグロマケドニア一部アルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビア共産主義政府非常事態宣言し、軍や警察大量投入して反乱鎮圧した。しかし、このことによってセルビア共産主義者らが要求していたコソボ自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビア新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した別の者は、この騒動での死者1000人を超える主張している。 コソボ共産主義者同盟の間にも粛清が行われ、その党首をはじめ重要人物らが追放された。あらゆる種類民族主義に対して強硬路線が採られ、セルビア人アルバニア人双方民族主義者らに対す取締りが行われた。コソボには大量秘密警察配置され当局認められていないセルビア人アルバニア人双方民族主義活動厳しく弾圧した。マーク・トンプソン(Mark Thompson)の報告によると、コソボ住民580,000人が逮捕され尋問され拘留され、あるいは懲戒された。数千人が職を失い、あるいは教育機関から追放された。 この間アルバニア人セルビア人共産主義者の間の緊張高まり続けていた。1969年セルビア正教会はその主教に対してコソボセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集命じベオグラード政府に対してセルビア人立場を守るよう圧力をかけることを模索した1982年2月セルビア本国からセルビア人神品聖職者)らの集団が「なぜセルビア正教会沈黙しているのか、なぜ進行中コソボ聖堂対す破壊行為放火冒涜行為に対して抗議活動をしないのか」と求めたこのような懸念ベオグラード政府関心ひきつけたコソボにおいてセルビア人モンテネグロ人迫害受けているとする多くの話が日々紹介された。恐怖不安定化を招く重大な事実として、コソボアルバニア人マフィアによる麻薬取引の話があった。 これらに加えてコソボ経済状態悪化不安定化拍車をかける要因となったコソボ経済状態悪化によってコソボセルビア人同地で職にありつく機会失われていったアルバニア人セルビア人ともに、新しく労働者採用する際には同じ民族の者を優遇したが、求職の数そのもの人口に対して極端に少ない状態となった。終局には、アルバニア人自称している者の中に多くイスラム教信仰を持つようになったロマ含まれていると信じられる至ったコソボユーゴスラビアの中で最も貧しく1979年時点一人当たりGDP795ドルであった。これに対してユーゴスラビア全土での平均は2635ドル、最も豊かなスロベニアでは5315ドルであった

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