1900年ロコモビル説
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「日本への自動車の渡来」の記事における「1900年ロコモビル説」の解説
画像提供依頼:THE DANSHAKU LOUNGE、男爵資料館のロコモビルもしくは当時の日本に輸入されたロコモビルの写真の画像提供をお願いします。(2020年12月) 1900年(明治33年)4月に横浜に渡来したロコモビルが最初の輸入車だとする説である。戦後になって現れた新説だが、自動車工業会が『日本自動車工業史稿』第1巻(1965年)で皇太子献納車説を排してこの説を採用したことから有力説となる。 説の発生と確立の経緯 この説は宮崎峰太郎という人物が 雑誌『汎交通』(日本交通協会発行)1961年5月号に寄せた「日本最初の自動車」という回顧談の中で語った話が起源となっている。宮崎は1900年当時に横浜の外国商館のひとつであるアメリカン・トレーディング・カンパニーに勤めており、この回顧談は80歳を過ぎてから発表したものである。 この回顧談の中で、宮崎は「明治33年4月」にアメリカ人の富豪の息子で横浜在住のJ・W・トンプソンという人物がアメリカン・トレーディング・カンパニーを介してロコモビル自動車を輸入したという話を明らかにする。 当時、『日本自動車工業史稿』の編纂に取り組んでいた自動車工業会は宮崎に取材してこの説を取り入れ、同書・第1巻(1965年刊)ではそれまで信じられていた皇太子献納車説を否定してこの1900年のロコモビルを日本に渡来した最初の自動車として記述した。 1979年、同書の説を受けてNHK北海道が函館・男爵資料館所蔵の川田龍吉のロコモビルを復元し、同年10月にドキュメンタリードラマ『いも男爵と蒸気自動車と』を全国放送して1900年ロコモビル説を一般にも広く普及させる。 批判 この説が有力説となると、研究者からは疑義と批判が出るようになる。疑義が出たのはこの説が宮崎の証言のみに基づいて断定したものであり、輸出入記録等の記録や新聞記事など、裏付けとなるような資料を示していなかったためである。 批判として1点目に指摘されたのは宮崎が語る当時の物事の時期が実際のそれと不一致なことである。 宮崎の談話で挙げられている当時の各事象の時期を実際の記録と照合すると、それぞれ1年前後の誤差があり、宮崎が証言した年月について全体的に信憑性に欠けることが調査によって明らかとなっている。一例として、ロコモビル社の日本代理店(芝口店)の開店時期を宮崎は「1901年4月」としているが、当時の複数の新聞記事や雑誌などにある報道では「1902年6月1日」であり、14か月の誤差がある。同様に、第5回内国勧業博覧会の時期も、宮崎は「1902年4月」としているが、実際の会期は「1903年3月から7月」で、およそ1年の開きがある。こうした1年前後の差異が他にも複数見つかっている。 加えて、宮崎の話に登場する「J・W・トンプソン」について、トンプソンはロコモビル社の日本進出にあたっての出資者で実在したことは確かだが、1902年に父親(ジョン・リー・トンプソン)とともに来日したことは確認できているものの、それ以前に日本に滞在していたという記録が発見されておらず、これも1900年ロコモビル説を否定する傍証となっている。 年の誤差については宮崎が60年前のことを語るにあたって1、2年の誤差を生じさせるのは仕方ないことで、それを裏付けも取らずに学説として採用した自動車工業会の姿勢に対しては批判もある。 批判の2点目は、ロコモビル社が販売して現存している川田龍吉の車両に取り付けられている銘板に基づいたものである。宮崎が言うように川田が「1901年9月」に購入したとした場合、銘板からは下記の3つの矛盾を読み取ることができる。 特許取得日「JUL. 9, 1901」 川田の車両には特許取得日を列記した銘板が付けられており、その日付の内、最も新しいものは「1901年7月9日」付けとなっている。特許取得日は特許が確定してから刻まれるものなので、この車両は早くとも1901年秋頃に製造されたということになる。 製造番号「No. 3605」 ロコモビル社(1899年創業)は1899年に蒸気自動車の生産を始め、1899年に約600台、1900年に約1,600台、1901年に約1,400台生産した記録が残っており、1901年時点で累計で約3,600台を生産している。このことから、川田の車両は1901年末か1902年初め頃に生産された車両と推測できる。 生産地「BRIDGEPORT, CONN., U.S.A.」(米国コネチカット州ブリッジポート) ロコモビル社の工場は創業当初はマサチューセッツ州ウエストボロー(英語版)に所在していたが、1901年7月にコネチカット州ブリッジポートに移転している。このことからこの車両が1901年7月以降に製造された車両であることを確定できる。 それらの批判に加えて、ウォルター・ストーン(ロコモビル社日本代理店の人物)が1902年4月にロコモビル8台を輸入したことの記録が発見されていることでも疑義を深めている。車両の引き取りに際してストーンはロコモビルの関税の税率をめぐって横浜税関と争っており、異議申し立ての経緯と採決についての記録が残っている。もしそれ以前から同車の輸入実績がある場合、この争いは不自然ということになる。上記の2点目に関連して、ブリッジポート工場から横浜までの輸送には当時およそ40日かかったと考えられているため、川田龍吉の車両もこの1902年4月着の8台の1台と考えたほうが無理がない。 この説が採用された背景 日本に初めて持ち込まれた車両の「定説」を書き換えることは、『日本自動車工業史稿』にとってはいわば目玉だった。同書はロコモビル説を主張するにあたって、皇太子献納車説に長文の批判を加えており、そこには昭和初期の大日本帝国政府におもねって歪んだ自動車の歴史を訂正しようという意気込みが感じられると同時に、その意気込みが定説への過度な否定につながっていることもはっきりと読み取れると言われている。つまり、資料的な根拠に欠ける説にも関わらず、皇太子献納車説や(同説を「定説」に仕立てた)背景にある戦前の政治体制への反発が動機となって、新説を強引に断定してしまっている観は否めない。 この説が広まった背景 説の根拠は一個人の回顧談のみであり、明確な証拠は示されていなかったが、自動車製造会社の業界団体である自動車工業会が『日本自動車工業史稿』に載せた説であったため、説の適否について検証されることはなく、百科事典や自動車博物館の説明文、自動車メーカーの社史などで長年に渡って引用され続けて広まった。
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