1900年ロコモビル説とは? わかりやすく解説

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1900年ロコモビル説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:52 UTC 版)

日本への自動車の渡来」の記事における「1900年ロコモビル説」の解説

画像提供依頼:THE DANSHAKU LOUNGE男爵資料館のロコモビルもしくは当時日本輸入されたロコモビルの写真画像提供をお願いします。(2020年12月1900年明治33年4月横浜渡来したロコモビルが最初輸入車だとする説である。戦後になって現れ新説だが、自動車工業会が『日本自動車工業史稿』第1巻1965年)で皇太子献納車説排してこの説を採用したことから有力説となる。 説の発生確立経緯 この説は宮崎峰太郎という人物雑誌『汎交通』(日本交通協会発行1961年5月号に寄せた日本最初自動車」という回顧談の中で語った話が起源となっている。宮崎1900年当時横浜外国商館のひとつであるアメリカン・トレーディング・カンパニーに勤めており、この回顧談80歳を過ぎてから発表したのである。 この回顧談の中で、宮崎は「明治33年4月」にアメリカ人富豪息子横浜在住J・Wトンプソンという人物がアメリカン・トレーディング・カンパニーを介してロコモビル自動車輸入したという話を明らかにする当時、『日本自動車工業史稿』の編纂取り組んでいた自動車工業会は宮崎取材してこの説を取り入れ同書第1巻1965年刊)ではそれまで信じられていた皇太子献納車説否定してこの1900年のロコモビルを日本渡来した最初自動車として記述した1979年同書の説を受けてNHK北海道函館男爵資料館所蔵川田龍吉のロコモビルを復元し同年10月ドキュメンタリードラマ『いも男爵蒸気自動車と』を全国放送して1900年ロコモビル説を一般に広く普及させる批判 この説が有力説となると研究者からは疑義批判が出るようになる疑義出たのはこの説が宮崎証言のみに基づいて断定したものであり、輸出入記録等記録新聞記事など、裏付けとなるような資料示していなかったためである。 批判として1点目に指摘されたのは宮崎が語る当時物事時期実際のそれと不一致なことである。 宮崎談話挙げられている当時の各事象時期実際記録照合すると、それぞれ1年前後誤差があり、宮崎証言した年月について全体的に信憑性欠けることが調査によって明らかとなっている。一例として、ロコモビル社の日本代理店口店)の開店時期宮崎は「1901年4月」としているが、当時複数新聞記事雑誌などにある報道では「1902年6月1日」であり、14か月誤差がある。同様に第5回内国勧業博覧会時期も、宮崎は「1902年4月」としているが、実際会期は「1903年3月から7月」で、およそ1年開きがある。こうした1年前後差異が他にも複数つかっている。 加えて宮崎の話に登場するJ・Wトンプソン」について、トンプソンはロコモビル社の日本進出にあたって出資者実在したことは確かだが、1902年父親ジョン・リー・トンプソンとともに来日したことは確認できているものの、それ以前日本滞在していたという記録発見されておらず、これも1900年ロコモビル説を否定する傍証となっている。 年の誤差については宮崎60年前のことを語るにあたって1、2年の誤差生じさせるのは仕方ないことで、それを裏付け取らず学説として採用した自動車工業会の姿勢に対して批判もある。 批判2点目は、ロコモビル社が販売して現存している川田龍吉車両取り付けられている銘板基づいたのである宮崎が言うように川田が「1901年9月」に購入したとした場合銘板からは下記3つの矛盾読み取ることができる。 特許取得日「JUL. 9, 1901川田車両には特許取得日を列記した銘板付けられており、その日付の内、最も新しいものは「1901年7月9日付けとなっている。特許取得日は特許確定してから刻まれるものなので、この車両早くとも1901年秋頃製造されということになる。 製造番号No. 3605」 ロコモビル社(1899年創業)は1899年蒸気自動車生産始め1899年に約600台、1900年に約1,600台、1901年に約1,400生産した記録残っており、1901年時点累計で約3,600台を生産している。このことから、川田車両1901年末か1902年初め頃に生産され車両推測できる生産地BRIDGEPORT, CONN., U.S.A.」(米国コネチカット州ブリッジポート) ロコモビル社の工場創業当初マサチューセッツ州ウエストボロー(英語版)に所在していたが、1901年7月コネチカット州ブリッジポート移転している。このことからこの車両1901年7月以降製造された車両であることを確定できる。 それらの批判加えて、ウォルター・ストーン(ロコモビル社日本代理店の人物)が1902年4月にロコモビル8台を輸入したことの記録発見されていることでも疑義深めている。車両引き取りに際してストーンはロコモビルの関税税率めぐって横浜税関争っており、異議申し立て経緯採決についての記録残っている。もしそれ以前から同車輸入実績がある場合、この争いは不自然ということになる。上記2点目に関連してブリッジポート工場から横浜までの輸送には当時およそ40かかった考えられているため、川田龍吉車両もこの1902年4月着の8台の1台と考えたほうが無理がない。 この説が採用され背景 日本初め持ち込まれ車両の「定説」を書き換えることは、『日本自動車工業史稿』にとってはいわば目玉だった。同書はロコモビル説を主張するにあたって皇太子献納車説長文批判加えており、そこには昭和初期大日本帝国政府おもねって歪んだ自動車歴史訂正しようという意気込み感じられる同時に、その意気込み定説への過度な否定つながっていることもはっきりと読み取れると言われている。つまり、資料的な根拠欠ける説にも関わらず皇太子献納車説や(同説を「定説」に仕立てた背景にある戦前政治体制への反発動機となって新説強引に断定してしまっている観は否めない。 この説が広まった背景 説の根拠一個人回顧談のみであり、明確な証拠示されていなかったが、自動車製造会社業界団体である自動車工業会が『日本自動車工業史稿』に載せたであったため、説の適否について検証されることはなく、百科事典自動車博物館説明文自動車メーカー社史などで長年渡って引用され続けて広まった

※この「1900年ロコモビル説」の解説は、「日本への自動車の渡来」の解説の一部です。
「1900年ロコモビル説」を含む「日本への自動車の渡来」の記事については、「日本への自動車の渡来」の概要を参照ください。

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