音楽の変化と発展とは? わかりやすく解説

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音楽の変化と発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:36 UTC 版)

リヒャルト・シュトラウス」の記事における「音楽の変化と発展」の解説

この頃までのシュトラウス作品父親教育忠実で、シューマンメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであったモーツァルト崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なのである終曲フーガ聞いたとき、私は天国にいる思いがした」と語ったという。なおシュトラウス1926年自身指揮でこの曲を録音している。 シュトラウス当時新し音楽興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人結婚したアレクサンダー・リッター出会ったときからである。シュトラウス革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。この革新的傾向シュトラウス決定的な影響与え1889年初演されシュトラウス出世作として最初に成功した作品交響詩ドン・ファン』(Don Juan)が生まれた。この作品に対して聴衆半数喝采し残り半数野次浴びせたシュトラウス彼の内なる音楽声を聞いたことを知って、「多数仲間から狂人扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」として、交響詩作曲続けた。その中にはティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels lustige Streiche, 1895年)、シュトラウス死後映画『2001年宇宙の旅』使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』Also sprach Zarathustra, 1896年)がある。 1894年シュトラウスバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮するシュトラウスはこの時、エリーザベト歌っていたソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナ(ドイツ語版)とたちまち恋に落ち結婚したシュトラウス夫人となったパウリーネはその激し性格により、恐妻家シュトラウスの妻として幾つかの逸話残している。代表的なものマーラーが妻アルマ送った1907年1月の手紙であり、そこでマーラーベルリン住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際のことを書き残している。 (以下マーラー文章)「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込みありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウス部屋へ、私を両手掴んで有無を言わせず引っ張って行き金切り声で“起きてちょうだいグスタフが来たのよ!”。シュトラウス受難者めいた顔つき苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶飲みパウリーネ土曜日昼食一緒にすることを約束させられて、2人宿泊先ホテルまで送ってもらった。」 しかし、彼女が「主婦として、よくシュトラウス尽くしていた」ことも指摘されている。なおパウリーネとの家庭生活に想を得た作品として、歌劇インテルメッツォ』と『家庭交響曲』があり、『影のない女』の染物師の妻もパウリーネモデルとされる1898年最後交響詩英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心オペラに向けるようになった。このジャンルでの最初試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作稚拙な台本のせいで酷評され失敗終った。続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言オペラということもあり、一定の評価収めたとどまった1903年には以前から成功していた管弦楽曲分野戻り家庭交響曲』を完成させる。しかし、1905年オスカー・ワイルド戯曲ドイツ語訳作曲した『サロメ』Salome)を初演すると、空前反響呼んだ。ただし、聖書題材にしていることや、エロティック内容反社会的とされ、ウィーン始め上演禁止になったところも多い。ニューヨークメトロポリタン歌劇場がこの作品上演した時などは、終演後の聴衆怒号余り激しさにたった1回公演中止になったほどであったマーラーら、当時作曲家達はその前衛的な内容深く共感しシュトラウスオペラ作曲家としての輝かし第一歩踏み出したシュトラウス次のオペラ1908年完成したエレクトラ』 (Elektra) で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた多調不協和音躊躇なき使用などを行い調性音楽限界を超えて無調音楽一歩手前までに迫った。この作品シュトラウス詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタール協力した最初オペラでもある。このコンビホーフマンスタール死去するまで、音楽史稀に見る実り豊かな共作続けていくことになる。 そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『ばらの騎士』(Der Rosenkavalier, 1910年)で、大成功をおさめ作曲家としての地歩を固めるシュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法追求控え当時興隆しつつあった新ウィーン楽派新古典主義音楽などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式留まり続けたため、結果的に穏健派立場に立つこととなる。1915年に『アルプス交響曲』を完成させた後も、最後オペラ作品となる『カプリッチョ』(1941年)に至るまで精力的にオペラ作曲した後期の作品先進派からの評価は低いが、今日では時代先端であった前期作品中心に多く演奏されている。最後10年間は創作ペース落ちたものの『カプリッチョ』『4つの最後の歌』(1948年)などの重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作生み出した期間が60年におよんでいる。管弦楽作品オペラ両方多く代表作残したという点では、モーツァルト以来存在とする見解もある。

※この「音楽の変化と発展」の解説は、「リヒャルト・シュトラウス」の解説の一部です。
「音楽の変化と発展」を含む「リヒャルト・シュトラウス」の記事については、「リヒャルト・シュトラウス」の概要を参照ください。

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