鉄道・バス・タクシー・運送業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 22:55 UTC 版)
「浅野財閥」の記事における「鉄道・バス・タクシー・運送業」の解説
浅野財閥の鉄道事業は、セメント原料運搬の必要から経営する事になったものが多い。 青梅電気鉄道(現:JR青梅線) 明治25年設立、浅野総一郎は発起人の一人で明治26年に株数で2位だが、同株数4人。明治40年に浅野セメントが1000株で2位の株主、大正6年に持株比率10%台に上昇、大正13年以降浅野セメント持株比率は低下する。青梅町宮ノ平の石灰採掘場 から石灰石と砂利を東京深川の浅野セメント工場に運ぶため。明治41年に軌間拡張工事完成し、青梅の材木や多摩川砂利も扱い輸送量が飛躍的に増加したうえに、国鉄中央東線に貨車が直通して積替コストが消滅したので、営業収入が増加した。大正6年に日向和田から二俣尾の延長線建設と雷電山採掘場開設を決定。大正9年に宮ノ平と雷電山の石灰石採掘権利を譲り、山代金を受け取る契約を浅野セメントと結ぶが、採掘量が増加して青梅鉄道の収益も増加。大正13年以降は、浅野セメントの要求に応じて、山代金の値下げを繰り返し、昭和5年には、側線使用量を無料化、さらに、五日市鉄道が国鉄に直通し青梅電気鉄道を経由しなくなったため、昭和5年下期には収益悪化し無配に転落した。昭和19年に国有化された。 磐城鉄道(現:JR常磐線) 日本鉄道50万円、通運会社50万円、川崎八右衛門50万円、渋沢財閥25万円、浅野財閥25万円の、合計200万円出資して、明治30年に磐城鉄道開通。磐城炭鉱の石炭を経済的に東京に輸送する為に敷設。明治39年日本鉄道国有化で国鉄になる。 筑波鉄道(初代) 大正7年設立。真壁町から花崗岩を運搬するため。浅野石材工業が筆頭株主 昭和62年に廃線。線路跡はつくばりんりんロードというサイクリングロードになった。 秩父鉄道 大正3年から4年に武甲山の石灰石の20年間採掘権を獲得。大正5年に石灰石搬出用に秩父 - 影森の延長線免許取得。大正6年に浅野セメントと石灰石売買契約を結び、秩父鉄道は自社の運賃を割引くだけでなく、国鉄の運賃割引も浅野セメントの為に交渉して獲得し優遇。大正7年9月に延長線が完成し浅野セメント工場に石灰石販売・輸送を開始。同年12月に採掘権を浅野セメントに売却し、秩父鉄道は運賃収入のみになる。この頃に浅野セメントが出資するが持株比率は常に低く0.7 - 0.8%。大正12年設立の秩父セメントが、地元の武甲山にセメント工場を建設し大正13年8月から秩父鉄道でセメントを出荷し始めた。大正14年6月時点で、秩父鉄道の筆頭株主は秩父セメント諸井恒平5580株で、浅野セメント浅野泰治郎は1000株で25位の株主で同株数8人。(秩父セメントが筆頭株主になったのが昭和4年という説もある。) 昭和2-3年に浅野セメントの運賃引下げ要求を拒否したが、昭和5年に秩父セメントには割引運賃を設定した。昭和5年には秩父セメントの持ち株比率が8.2%に達した。 南武鉄道(現:JR南武線) セメント原石を浅野セメント川崎工場に運ぶ為と、多摩川の砂利を運ぶ為の鉄道。大正12年、浅野セメントの4人が40%の株式を占める。社長は大塚栄吉だが、事実上の支配者は浅野総一郎で、浅野から4人が重役になる。用地買収に手間取り借入金が増加していった。昭和2年、川崎〜登戸、矢向〜川崎河岸が開業し、昭和5年3月、尻手〜浜川崎の浅野セメント引込線開通し、同年4月、立川で五日市鉄道や青梅電気鉄道と繋がり浅野セメント川崎工場へ石灰石輸送開始したが、借入金利払いが増大し無配転落。昭和5年11月から浅野セメント川崎工場は操業短縮に入り、石灰石輸送量が減少したので、昭和7-9年には、運賃ベースで石灰石27-33%、砂利28-45%になった。昭和19年国有化された。会社は南武不動産からアサノ不動産を経て現:太平洋不動産。 小倉鉄道 大正12年に浅野傘下に入る。地元の有志が石炭を炭鉱から小倉港に輸送するために設立したが、融資返済の代わりに、浅野財閥に株式を渡す。資本金452万円で、その内の浅野資本は100万円。浅野総一郎が相談役、浅野良三と末兼要が取締役を務める。昭和18年に国有化。現:JR日田彦山線 五日市鉄道 大正13年(1924年)に発行株式の4分の1以上を握り、浅野泰治郎と金子喜代太が取締役に就任し、浅野セメントが支配する。勝峰山の石灰石採掘場からセメント原料の石灰石を運ぶため。昭和15年に南武鉄道に合併。(現:JR五日市線) 鶴見臨港鉄道(現:JR鶴見線) 大正13年設立。浅野財閥が50%を出資、芝浦製作所・日清製粉・日本石油・スタンダード石油・ライジングサン石油・石川島造船所・旭硝子・三井物産が残りを出資。浅野財閥の埋立地区の工場と東海道線などを接続して、流通を円滑にするため。関係者の名前が駅名になった。鶴見小野駅(地元の大地主小野重行)浅野駅(浅野総一郎)安善駅(安田善次郎)武蔵白石駅(白石元治郎)大川駅(大川平三郎)扇町駅(浅野総一郎の家紋が扇)。昭和18年に国有化。社章は鶴と車輪。現:東亜リアルエステート 三岐鉄道 昭和3年設立。(三井財閥の小野田セメントや地元の有力者と共同。)藤原岳からセメント原料の石灰岩を運ぶため。昭和12年頃は12万株の内で浅野の持株が4万株弱。 留萌鉄道 昭和3年設立。国鉄留萌線を経由して留萌港と雨龍炭田を結ぶため、浅野財閥・明治鉱業・三井鉱山・北海道炭鉱汽船・住友財閥が共同。1971年に廃線。 武蔵野鉄道 経営難の武蔵野鉄道がセメント原料の石灰岩の山を発見し、東京セメントを設立しセメント輸送で経営を改善しようとしたが、供給過剰で市場価格が暴落することを恐れた浅野セメントが五年間石灰石購入契約を結ぶ。石灰岩採掘権を東京セメントに譲渡して、一時的に経営が改善した。武蔵野鉄道は地元派・浅野派・藤山派に分かれていたが、経営権を握っていた地元派が杜撰な経営をしていた。昭和5年に、浅野派は藤山派から株を譲り受けて支配権を手に入れたが、経営改善の方策はなく浅野派経営陣は辞任した。昭和6年に堤康次郎が競売された株を落札して大株主になった。昭和12年頃は、浅野財閥が22/240の株所有。(現:西武鉄道) 日東運輸商事 昭和8年設立、運送と運送取扱業、物品売買業、労力請負業。 川崎自動車運輸 昭和11年設立、貨物自動車運輸・自動車修繕。 川崎合同タクシー 昭和12年設立、自動車による旅客運輸。 奥多摩電気鉄道 昭和12年設立、日原から採掘予定の石灰石を東京深川や川崎の浅野セメント工場に運ぶため。人も資本も青梅電気鉄道は僅かで浅野セメントが主体。昭和19年、線路開通の日に鉄道は国有化された。会社は奥多摩工業に改名して昭和21年に石灰石採掘販売を開始した。(現:JR青梅線) 鶴見川崎臨港バス 昭和12年に鶴見臨港鉄道が設立。廃止する海岸電気軌道の代替交通手段。昭和13年に川崎乗合自動車を吸収合併し、川崎鶴見臨港バスに改称。昭和23年財閥解体により、鶴見臨港鉄道の役員は川崎鶴見臨港バスの役員を辞任し、京浜急行電鉄と大和自動車交通に経営権が移る。平成18年に京浜急行電鉄の完全子会社になる。 錦西鉄道 昭和14年設立。大同洋灰がセメント材料を輸送するために満州鉛鉱と共同出資で満州に設立。 阪神貨物自動車運輸 昭和15年設立、自動車による貨物運輸。
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