貴族院議長とは? わかりやすく解説

貴族院議長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:54 UTC 版)

徳川家達」の記事における「貴族院議長」の解説

1903年明治36年10月近衛篤麿公爵7年の貴族院議長任期満了近づく中、近衛病状悪化により貴族院議長後任問題浮上した新聞紙上で研究会所属黒田長成侯爵当時貴族院副議長)と無所属家達が有力候補として取りざたされていた。家達有力視されていたのは第9回議会以来全員委員長全員委員会とはイギリス議会倣って導入され制度議員全員参加する委員会である。しかし全員委員会開催はほとんどなくその委員長職は院内名誉職的な地位だった)の選挙第10回第11回議会除けば(この2回も当選してはいるが、谷干城子爵迫られ僅差だった)圧倒的票差で当選し続けていたためである。 首相桂太郎家達強く推薦した結果12月家達近衛後任として第四代貴族院議長に勅任された。この就任の経緯について家達は「明治36年12月3日事と思ひますが、宮中首相に面会致しましたとき『近衛公の後任として議長推薦したい』というお話であつたから、私は『議長として当時副議長黒田侯爵昇格せられるのが、もつとも適当と思ひます』と黒田侯を推薦して私は固辞しました。ところが首相は『今陛下拝謁致し奏上御裁可得たる故、是非承諾してくれ』とのこと極力私の就任慫慂せられましたから、私は熟考結果かくまで熱心に推薦せられる以上、拒否するわけにもいかぬと思つて、ついにこれを承諾し同年十二月議長に任ぜられたのであります」と述べている。 家達1903年明治36年12月4日よりから1933年昭和8年6月9日まで、延べ31年長きわたって貴族院議長を務めた議長就任直後家達は「議員諸君多数御意見に従」うと公言し議場における「院議」を尊重する態度示した以降家達各派交渉会をはじめとする院内での意思疎通貴族院その時々の内閣との間の交渉尽力していくことになる。 日露戦争後1906年明治39年4月22日にも千駄ヶ谷徳川公爵邸で日清戦争時のような凱旋軍人慰労会催された。家達祭壇の前で戦没者のための祭文読み上げて玉串をささげ、遺族凱旋者に対す式辞読んだその後家達発声で「天皇陛下歳」、慶喜発声で「陸海軍歳」、榎本発声で「徳川家歳」が三唱された。 貴族院議長7年任期切れの後の1910年明治43年)にも貴族院議長に再任。この7年の間に家達議長として私心」のない「公平」な人物と評価されるようになっていた。政治評論家鵜崎熊吉家達について「何の政団にも当たり障りない家達を「無色透明」と評している。 実際当時家達貴族院の院内会派には所属してなかったが、政治的立場としては衆議院立憲政友会近く政友会連携によって成立した西園寺公望内閣や、再び政友会との連携によって成立した第一次山本内閣好意的だったが、1914年大正3年)のシーメンス事件山本内閣窮地に陥り、貴族院内でも幸倶楽部派中心に山本内閣追及強まり、特に勅選議員貴族院議員村田保執拗に山本内閣攻撃した。それについて家達は「人身攻撃に渡るような議論をなし、遂に罵詈讒謗至らざるなしといふ、痛烈深刻なもの」だったので「議長としてしばしば注意加へ、あるひは中止しようかと思った程」であった回顧している。会議録でも家達村田議事日程発言順などを巡って激しく論争しており、家達村田発言制しようとしている。2月20日村田臨時発言請求する家達各派交渉会を開き、そこで従来慣例がないことを理由にそれを却下しつつ、村田請求緊急動議議場諾否求めさせることと決した2月26日家達村田緊急動議の是非を議場に諮り、反対少数だったことから村田演説許可したが、演説中に副議長黒田侯爵議長席を譲って退席している。結局後に村田議場混乱させた責任取って辞表提出した

※この「貴族院議長」の解説は、「徳川家達」の解説の一部です。
「貴族院議長」を含む「徳川家達」の記事については、「徳川家達」の概要を参照ください。


貴族院議長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:25 UTC 版)

貴族院 (イギリス)」の記事における「貴族院議長」の解説

中世から2009年まで貴族院議長は大法官Lord Chancellor) が務めた大法官605年まで遡る事ができると言われる最も歴史ある官職であるため、現在でも臣下宮中序列ではカンタベリー大主教に次ぐ第2位とされており、首相よりも上位者である。大法官貴族院において議長裁判長貴族院2009年まで最高裁判所であった)を務めつつ、内閣においては法務大臣閣僚職務める。つまり立法権司法権頂点に立ち、行政でも要職にあり、また裁判官任免持っていたので司法行政権能もあった。そのため三権分立論者からは最大批判対象となってきた。 2003年3月には欧州評議会イギリス政府大法官権能修正すべき旨の決議行っている。 これを受けて2005年憲法改革法によって大法官地位変更されることとなった。貴族院議長たる地位失い、また2009年から連合王国最高裁判所新設されるのに伴って司法機能喪失した。 これ以降、貴族院議長(Lord Speaker)は貴族院議員からの互選選出されることになった最初の貴族院議長選挙英語版)は2006年実施された。 貴族院議長の任期5年であり、2期まで務めることができる。貴族院議長は党派的行動取らないことが期待される。貴族院議長は大法官以来沿革庶民院議長異なり、院の秩序を保つ権利有しない。その権利は院全体有する(つまり貴族院秩序討議準則維持は全出席議員責任)。

※この「貴族院議長」の解説は、「貴族院 (イギリス)」の解説の一部です。
「貴族院議長」を含む「貴族院 (イギリス)」の記事については、「貴族院 (イギリス)」の概要を参照ください。


貴族院議長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 01:50 UTC 版)

プロイセン貴族院」の記事における「貴族院議長」の解説

歴代プロイセン貴族院議長(Präsidenten des Preußischen Herrenhauses)は以下の通りハンス・ハインリヒ10世・フォン・ホッホベルク侯爵1854年アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯子(1856年-1862年) エバーハルト・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデドイツ語版伯爵1862年-1872年) アドルフ・ツー・アルニム=ボイッツェンブルク(ドイツ語版伯爵 ヴィクトル1世・フォン・ラティボル公爵1877年-1893年ヴィルヘルム・アドルフ・ツー・ヴィート侯爵1897年1904年) エッツァルト・ツー・インハウゼン=クニプハウゼン(ドイツ語版侯爵1904年オットー・フォン・マントイフェルドイツ語版男爵1908年-1911年) ヴィルヘルム・フォン・ヴェーデル=ピースドルフ(ドイツ語版)(1912年-1915年) ディートロフ・フォン・アルニム=ボイッツェンブルク(ドイツ語版伯爵1916年-1918年

※この「貴族院議長」の解説は、「プロイセン貴族院」の解説の一部です。
「貴族院議長」を含む「プロイセン貴族院」の記事については、「プロイセン貴族院」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「貴族院議長」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から貴族院議長を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から貴族院議長を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から貴族院議長 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「貴族院議長」の関連用語

貴族院議長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



貴族院議長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳川家達 (改訂履歴)、貴族院 (イギリス) (改訂履歴)、プロイセン貴族院 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS