貴族院議長
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1903年(明治36年)10月の近衛篤麿公爵の7年の貴族院議長任期満了が近づく中、近衛の病状の悪化により貴族院議長後任問題が浮上した。新聞紙上では研究会所属の黒田長成侯爵(当時貴族院副議長)と無所属の家達が有力候補として取りざたされていた。家達が有力視されていたのは第9回議会以来、全員委員長(全員委員会とはイギリス議会に倣って導入された制度で議員全員が参加する委員会である。しかし全員委員会の開催はほとんどなくその委員長職は院内の名誉職的な地位だった)の選挙に第10回と第11回議会を除けば(この2回も当選してはいるが、谷干城子爵に迫られ僅差だった)圧倒的票差で当選し続けていたためである。 首相の桂太郎が家達を強く推薦した結果、12月に家達が近衛の後任として第四代貴族院議長に勅任された。この就任の経緯について家達は「明治36年12月3日の事と思ひますが、宮中で桂首相に面会致しましたとき『近衛公の後任として議長に推薦したい』というお話であつたから、私は『議長として当時の副議長の黒田侯爵を昇格せられるのが、もつとも適当と思ひます』と黒田侯を推薦して私は固辞しました。ところが桂首相は『今陛下に拝謁を致し、奏上御裁可を得たる故、是非承諾してくれ』とのことで極力私の就任を慫慂せられましたから、私は熟考の結果、かくまで熱心に推薦せられる以上、拒否するわけにもいかぬと思つて、ついにこれを承諾し、同年の十二月議長に任ぜられたのであります」と述べている。 家達は1903年(明治36年)12月4日よりから1933年(昭和8年)6月9日まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた。 議長就任直後に家達は「議員諸君ノ多数ノ御意見に従」うと公言し、議場における「院議」を尊重する態度を示した。以降、家達は各派交渉会をはじめとする院内での意思疎通や貴族院とその時々の内閣との間の交渉に尽力していくことになる。 日露戦争後の1906年(明治39年)4月22日にも千駄ヶ谷の徳川公爵邸で日清戦争の時のような凱旋軍人の慰労会が催された。家達は祭壇の前で戦没者のための祭文を読み上げて玉串をささげ、遺族や凱旋者に対する式辞を読んだ。その後、家達の発声で「天皇陛下万歳」、慶喜の発声で「陸海軍万歳」、榎本の発声で「徳川家万歳」が三唱された。 貴族院議長7年の任期切れの後の1910年(明治43年)にも貴族院議長に再任。この7年の間に家達は議長として「私心」のない「公平」な人物と評価されるようになっていた。政治評論家の鵜崎熊吉は家達について「何の政団にも当たり障りない」家達を「無色透明」と評している。 実際、当時の家達は貴族院の院内会派には所属してなかったが、政治的立場としては衆議院の立憲政友会に近く、政友会の連携によって成立した西園寺公望内閣や、再び政友会との連携によって成立した第一次山本内閣に好意的だったが、1914年(大正3年)のシーメンス事件で山本内閣が窮地に陥り、貴族院内でも幸倶楽部派を中心に山本内閣追及が強まり、特に勅選議員の貴族院議員村田保が執拗に山本内閣を攻撃した。それについて家達は「人身攻撃に渡るような議論をなし、遂に罵詈讒謗至らざるなしといふ、痛烈深刻なもの」だったので「議長としてしばしば注意を加へ、あるひは中止しようかと思った程」であったと回顧している。会議録でも家達と村田は議事日程や発言順などを巡って激しく論争しており、家達は村田の発言を制しようとしている。2月20日に村田が臨時発言を請求すると家達は各派交渉会を開き、そこで従来慣例がないことを理由にそれを却下しつつ、村田の請求は緊急動議で議場の諾否を求めさせることと決した。2月26日に家達は村田の緊急動議の是非を議場に諮り、反対少数だったことから村田の演説を許可したが、演説中に副議長の黒田侯爵に議長席を譲って退席している。結局後に村田は議場を混乱させた責任を取って辞表を提出した。
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貴族院議長
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「貴族院 (イギリス)」の記事における「貴族院議長」の解説
中世から2009年まで貴族院議長は大法官 (Lord Chancellor) が務めた。大法官は605年まで遡る事ができると言われる最も歴史ある官職であるため、現在でも臣下の宮中序列ではカンタベリー大主教に次ぐ第2位とされており、首相よりも上位者である。大法官は貴族院において議長と裁判長(貴族院は2009年まで最高裁判所であった)を務めつつ、内閣においては法務大臣的閣僚職を務める。つまり立法権と司法権の頂点に立ち、行政でも要職にあり、また裁判官の任免権も持っていたので司法行政権能もあった。そのため三権分立論者からは最大の批判の対象となってきた。 2003年3月には欧州評議会がイギリス政府は大法官の権能を修正すべき旨の決議を行っている。 これを受けて、2005年の憲法改革法によって大法官の地位も変更されることとなった。貴族院議長たる地位を失い、また2009年から連合王国最高裁判所が新設されるのに伴って司法機能も喪失した。 これ以降、貴族院議長(Lord Speaker)は貴族院議員からの互選で選出されることになった。最初の貴族院議長選挙(英語版)は2006年に実施された。 貴族院議長の任期は5年であり、2期まで務めることができる。貴族院議長は党派的行動を取らないことが期待される。貴族院議長は大法官以来の沿革で庶民院議長と異なり、院の秩序を保つ権利を有しない。その権利は院全体が有する(つまり貴族院の秩序や討議準則の維持は全出席議員の責任)。
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貴族院議長
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歴代のプロイセン貴族院議長(Präsidenten des Preußischen Herrenhauses)は以下の通り。 ハンス・ハインリヒ10世・フォン・ホッホベルク侯爵(1854年) アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯子(1856年-1862年) エバーハルト・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ(ドイツ語版)伯爵(1862年-1872年) アドルフ・ツー・アルニム=ボイッツェンブルク(ドイツ語版)伯爵 ヴィクトル1世・フォン・ラティボル公爵(1877年-1893年) ヴィルヘルム・アドルフ・ツー・ヴィート侯爵(1897年–1904年) エッツァルト・ツー・インハウゼン=クニプハウゼン(ドイツ語版)侯爵(1904年) オットー・フォン・マントイフェル(ドイツ語版)男爵(1908年-1911年) ヴィルヘルム・フォン・ヴェーデル=ピースドルフ(ドイツ語版)(1912年-1915年) ディートロフ・フォン・アルニム=ボイッツェンブルク(ドイツ語版)伯爵(1916年-1918年)
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