船体の損傷と浸水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:29 UTC 版)
「タイタニック (客船)」の記事における「船体の損傷と浸水」の解説
受けた衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山との接触は10秒間ほどで、船体の破孔は数インチ、総面積も1平方メートル程度であったことが海底探査によって判明している。 しかし、右舷船首のおよそ90メートルにわたって断続的に生じた損傷が船首の5区画にもたらした浸水は防水隔壁の上限を超えており、隔壁を乗り越えた海水が次々と防水区画から溢れたことで船首から船尾へと浸水が拡大していった。また、損傷は第六区画内にある第五缶室にも達していたが、被害は右舷船首側石炭庫への浸水のみであり、一時はポンプによる排水も成功したかに見えた。しかし、1時10分頃に突如第五区画側から水が流れ込んできたため放棄された。これは事故前に発生していた船内火災の影響とも、水密隔壁に比べて強度が劣る石炭庫壁の損壊によって庫内の水が流入してきたものとも言われている。かつてはボイラーに冷水が触れて水蒸気爆発が起き、船体側面にできた破孔から大量に浸水したとする説が有力だったが、船体調査の結果ではボイラー付近にそのような破孔は確認されなかった。 沈没にいたるほどの損壊を生んだ原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。船体に使われていた鋼鉄には当時の低い精練技術のために不純物の硫化マンガン(II)が多く含まれており、寒冷時には特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で判明した。現在もっとも有力視されているのは、ティム・フェイキやジェニファー・ホーバー・マッカーシーらが唱えた、衝突の衝撃によって広い範囲のリベットが抜け落ち、その結果生じた鋼板の隙間から浸水したとする説である。ハーランド・アンド・ウルフの資料によると、設計上のタイタニックは300万本ものリベットで船体の金属板をつなぐ構造だったが、姉妹船オリンピックと同時注文のためレベル4の鋼鉄製リベットが不足し、船首と船尾にはワンランク劣る鉄製のレベル3が使われたうえ、リベットの直径も規定の25ミリ未満だった。また、リベットの本数が間引きされ、熟練工の不足のために不完全な打たれ方をしたものも少なくなかったという。2005年の海底探査で剥離した船底が発見されたことで、衝突の際にタイタニックは水面下に広がる氷山の突起に乗り上げるかたちで船底にも損傷を受け、沈没時に船体が折れる原因になったとするロジャー・ロムの説も生まれている。 スミス船長は海水の排水を試みようとしたが、ごくわずかな時間稼ぎに留まった。日付が変わった4月15日0時15分、マルコーニ社規定の遭難信号『CQD』を発信し、周辺の船舶に救助を求めた。しかし、現場からわずか10 - 17海里(約18 - 30キロ)ほどの距離に碇泊していた「カリフォルニアン」は、たった1人の通信士が就寝中で無線を受信できなかった。事故後の査問委員会にて同船船長のロード船長は、もし事故を知っていたら、最大船速13.5ノットにて2時間程度でたどり着けただろうと述べるとともに、同日0時頃に発光弾を放つ船が4マイル先を通過しているのを船長並びに複数の船員が目撃したが、発光信号を送っても無視されたと述べている(目撃の件については、タイタニックの生存者が船影らしき影を見ていることや、スミス船長が通信室にて水平線上に灯が見えていたと話していることから、同船が目と鼻の先にいたとする説もあるが、目撃されたのは後述の「マウント・テンプル(英語版)」だとする説もあり、真相は不明である)。カナディアン・パシフィックの「マウント・テンプル」も遭難信号を受けて救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満の距離の海域に到着したあとに、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れるあまり消灯して停船し、雲隠れしてしまった(査問委員会に提出された航海日誌では48海里(約88キロ)と記録されている)。乗客の何名かは、タイタニックの船体が折れる音を聞いたと証言している。 ほかにも、「バーマ」(距離70海里(130キロ))、「フランクフルト」(距離153海里(283キロ))、「バージニア」(距離170海里(315キロ))、「バルチック」(距離243海里(450キロ))、姉妹船「オリンピック」(距離500海里(約930キロ))など様々な船が遭難信号を傍受しているが、いずれもタイタニックから遠く離れた場所を航行しており、すぐには救助に向かえない状況であった。 結局、58海里(約107キロ)離れた地点にいた客船「カルパチア」が応答し、ボイラー破損のリスクを負いながら高速(通常14ノットのところを17ノット)で救助に向かったが、船足の鈍いカルパチアが現場に到着したのは沈没から2時間40分後の午前4時であった。 遭難信号については1906年11月3日にベルリンで調印された国際無線電信条約附属業務規則の第16条で遭難信号『SOS』が定められ、1908年7月1日より発効していたが、事故直後はマルコーニ国際海洋通信会社規定の遭難信号『CQD』を使っており、途中から国際条約による遭難信号『SOS』を併用している。
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