船体の捜索の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 17:59 UTC 版)
「グラニオン (潜水艦)」の記事における「船体の捜索の経緯」の解説
日本側の記録には、当時キスカ島近辺で7月30日以降に日本海軍が対潜攻撃を行ったはっきりとした記録は少なかったことから、少なくともアメリカ側においては喪失原因は長らく謎、あるいは機雷によるものとされていた。鹿野丸監督官であった相浦誠一海軍大佐の手記が防衛研究所戦史室編『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』および『戦史叢書46 海上護衛戦』に一部掲載されたのが1969年と1971年、これに基づいて雑誌「シーパワー」に艦船研究家の木俣滋郎がこの事実を書いたのが1985年、さらに相浦の別の寄稿や鹿野丸乗船者による手記も多数あったが、これらの裏づけを取るきっかけの一つとなったのが、J-aircraft.com掲示板(現在は閉鎖)でのやりとりである。War Birdsの質問コーナー「AnsQ」に寄せられた質問によると、その掲示板に、鹿野丸の残骸の一部を所有している人物からの書き込みがあり、それにハンドルネーム「IWA」という日本人が鹿野丸とグラニオンの関わりについて返事を相浦手記の翻訳を添えて書いたところ、グラニオン関係者からの問い合わせがあり、それがきっかけになって真相究明の流れに結びついた。 艦長のエベール少佐には不明となった1942年当時3人の息子、長男のブルース、次男のブラッドおよび三男のジョン(英語版)がいた。彼らは長じて後にグラニオンの探索に取り組んだ。その資金はボストン・サイエンティフィック(英語版)の創始者でもあったジョンが大半を負担した。背景には、ジョンと、客船タイタニックやドイツ戦艦ビスマルクの調査で知られた海洋地質学者のロバート・バラード(英語版)との論争の後、バラードが捜索への参加を拒んだことが挙げられる。探索はアリューシャン列島近海で行われた。2002年には日本政府関係者および退役軍人が探索に加わった。エベール兄弟は加えて同海域での日本海軍の喪失艇、駆潜艇数隻および駆逐艦霰の探索も行った。2006年には、防衛庁技術研究本部図書館に所蔵してあった鹿野丸戦闘詳報にあった海図から沈没位置を割り出し、これをきっかけとしてさらなる潜水探査を実施した。 2006年8月に探索船アクイラ (Aquila) はブルース・エベールにソナーの画像を中継した。1,800フィート (550m) の深海で得られた画像には「艦橋と潜望鏡のマストであろう特徴を備えた滑らかで長方形の物体」が描かれていた。2007年8月に行われた二次調査での画像では、その物体が長らく消息が不明であったグラニオンであろうことが明らかになった。最終的な調査結果は、2008年10月3日にアメリカ海軍によって認定され、これを受けて10月11日に、クリーブランドで博物館船として保存されているコッド (USS Cod, SS-224) においてグラニオン乗組員の告別式が執り行われた。なお、次男のブラッドはこれに先立つ2008年5月に亡くなり、アメリカ海軍による認定を生きて聞くことは出来なかった。
※この「船体の捜索の経緯」の解説は、「グラニオン (潜水艦)」の解説の一部です。
「船体の捜索の経緯」を含む「グラニオン (潜水艦)」の記事については、「グラニオン (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 船体の捜索の経緯のページへのリンク